縄文時代の日本はなぜ平和であったのか?

古事記や日本書紀には、天皇が九州から東へ統治を拡げたとあるので、天皇は九州に居たように思われるかも知れないが、実際には縄文時代から天皇の祖先であるアマテルは存在し、富士山の麓に住んでいたようである。(富士王朝 BC7000年~)
縄文時代は気候の関係で富士山麓や東北地方が住みやすく、実際に関東~東北に多くの縄文遺跡が残っている。
それが隣国からの侵略や富士山の噴火等の気候の変動もあり、大和朝廷は琵琶湖から六甲山~出雲~九州に遷ったのである。
それが弥生時代である。(BC300年~)

古事記や日本書紀には、西は九州から東は尾張(終わり)までということで富士山のことは一切書かれていない。
富士王朝の実在は疑う余地が無いのですが、遺跡や文献(ホツマツタエ、宮下文書等)が残っているにも関わらず、なぜ記紀には記載されていないかと言うと、富士王朝以前の話(神武天皇以前)は全部神話になっているからである。

実際には男神のアマテルや弟のソサノヲは存在し、ソサノヲはアマテルの側室であるモチコ・ハヤコにそそのかされて大暴れし、アマテルが岩戸に隠れたのも神話ではなく富士王朝での話である。
その後、裁判でソサノヲはアマテルの妻のセオリツ姫の温情により減刑されて下民に落とされ北陸~新潟方面に追放される。
追放されたソサノヲは、かねてイサナギから根の国とサホコチタルを治めるように言われていたこともあって出雲の支配者となる。

以上のホツマツタエの文章がそのまま記紀に成っているが天照大神が女神になり、セオリツ姫と富士王朝が消され「たか宮」の話が「高天原」の話になっている訳である。
記紀が正しいのかホツマツタエが正しいのか?実際はどうかというと、伊勢の神宮では、古代から内宮は男神の天照大神と妻の瀬織津姫が祀ってあり、20年毎に遷宮されるので記紀の方が改ざんされているのは事実である。

さて、日本の日本の歴史において縄文時代の約1万6000年もの間、環境を破壊せず大きな戦争が無かった世界でも類のない平和な時代であったのは事実である。
古代の世界では人口の増加に従って民族間で戦争を行っていたが、それに比べて日本は著しく争いが少なかったということである。

まったく戦が無かったわけでは無く、北海道の有珠モシリ遺跡で縄文時代後期における戦争の跡が見つかったが、世界的に見れば、狩猟採集民は多くの戦争をしてきた他国に比べて圧倒的に争いが無かったのは事実であり、日本の中で頻繁に戦争が始まったのは弥生時代からである。
世界史では過去になればなるほど、死亡率に占める戦士の割合が高いというのが常識になっているので世界史から鑑みても縄文時代は特殊である。

なぜ弥生時代に戦争が多かったのか歴史考察によると、弥生時代になって外国から移民が流入し人口が増え、米作などの農業が始まり、富の蓄積、搾取による貧富の格差、そして戦争が始まった、というのが通説である。

しかしながら弥生時代以後の日本も世界史と比較すれば奇跡的に等しいレベルで日本人は清潔好きで礼儀正しく友好的な民族であり長く世界トップ水準に経済繁栄を維持していると思われる。第二次大戦で敗戦をしたが、古来より先進国でアジアで唯一植民地化されなかった国である。
また敗戦や災害があっても驚くべき短時間で立ち直る国家でもある。

なぜこのように日本は世界史の中でも特別な国家であるのか、実は各国の学者が日本を研究をしているのであるが、そこで判った結論というのは「日本の特殊性は超民主主義の天皇制国家」であるということである。
つまり、日本のような「超民主主義の天皇制国家」を世界中で実践すれば世界が家族のように平和で繁栄するということである。

過去から現在まで如何にして理想の世界を作るか考察され現在では、民主主義の資本主義というのが実践されていますが、しかしながら、実のところ、人間社会というものは「自由・平和・平等」を掲げる民主主義では決して平和で助け合う世界にはならないのである。

マルクスが資本主義を基盤とした民主主義では格差が発生し競争が始まるので平和でなくなると考察したのは正しい訳であるが、マルクスは家族や男女などすべての格差を無くし、絶対的に誰もが平等な共産主義という理想を説いたが、周知の如く、共産主義は資本主義よりももっと悲惨な権力闘争と格差や貧乏を作り出すしかなかった。

そこで資本主義でも共産主義でも民主主義でも実現できない理想社会はどうやったらできるのか?というと、
それが「縄文時代の日本国家」に答えがあるのです。

その答えとは「超民主主義の天皇制国家」である。

さて、この「超民主主義の天皇制国家」とは何かということであるが、実はこの「超民主主義国家」を理想の国家として論じている文書があるのです。

それは、「ユダヤの議定書(シオンの議定書)」であります。この書は19世紀初頭に編纂されたユダヤ人の賢人会議での議事録という文書である。「シオンの議定書」は「ユダヤ支配世界」を達成する方法が書かれているのですが、議定書によると、「自由・平等の民主主義を吹き込んで不仲を起し非ユダヤの王政を破壊し、金銭によって社会を支配した後、理想的なユダヤの王を世界中の人々の前に出し、敬神と博愛に基いた絶対的なユダヤ人中心の理想社会を作り出す」というものである。
この書はユダヤ賢人会議の議定書で秘密である筈が世に出てしまったので「ユダヤ陰謀悪魔の書」と言われて弾圧されました。


そこにはこう書いてあります。

「人間が理想とする真の国家とは、敬神と博愛に基いた中心には絶対的な王が必要である。絶対的な王とは、覇王や帝王では無く、それとは対極の争いや富には関係せず、権力にも執着せず、大きな城にも住まず質素な者でなければならない。我々が作り出すユダヤ人の王はこのような者でなくてはならない。
つまり、権力では無く、権威によって統治する王が人間社会の理想国家には絶対に必要なのである。
神の如き王が存在することで民衆に敬神と同胞愛が育つのである。

しかし、愚かな民衆(非ユダヤ人)はこの真理を知らず理解も出来ない。彼らは自由や平等という存在しない概念を本気で信じ、自分達の親である王を排除し当然の結果として混乱し腐敗し荒んだ世界になるであろう。従って我々は自由と平等を世界に蔓延させ非ユダヤ人社会を混乱させ、混乱した民衆は金銭を神のように崇めるようになるであろう。そこで我々は金銭で民衆を支配するシステムをこれから作り出す。」

「前に論じたように、自由と平等とは矛盾した概念であり、両者が成立するには、国民に敬神と同胞愛が無ければ為らない。無論、絶対王が存在しない世界には敬神も同胞愛も無く、民衆は金銭を王として崇めるであろう」


と書かれているのです。


しかしながら、驚くべきことに「絶対的な王」と「天皇」は等しいのではないでしょうか?

わが日本には「敬神と博愛に基いた中心には絶対的な王」が存在しているのですから、この「超民主主義」いわゆる天皇制が「ユダヤ世界戦略の理想の政治形態」であるのです。
つまり、理想とする「自由・平和・平等」の民主主義の実現には、権威で支配する「絶対王」が必要であり、「絶対王」無くして決して平和で助け合う民主主義の世界にはならないのである。

「世界が平和で家族のような助け合う社会にするには、縄文時代の日本を手本にすべき」という話を最近良く聞きますが、これは「天皇制を世界に広めよう」という話と等しくなるのですが、戦前の国粋主義による他国侵略のような印象を世界に与えてしまう危険性があります。

その為、過去の失敗を繰り返さないように国粋主義による他国侵略でなく、敬神と同胞愛を実現する社会を目指すように、我々日本人が世界の尊敬を得るような模範民族となり、王が世界人類の平和を祈り、世界人類も王の繁栄を祈る「日本の皇道の本質」こそ最高の国家形態であるという真理を世界に広げることが世界平和への道だと考えるのです。

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この記事へのコメント

2024年09月01日 08:37
恐らく世界はそのような方向にいくのではないでしょうか?
それか滅亡(もしくは滅亡に等しい世界になる)か。
そのどちらかになるような気がするんですが、心がけの良い人間の方が多ければ、
いうほど遠くない未来に絶対王のような存在がある世界に変わっていくかもしれませんね。。。
また、ユダヤの議定書について、とても怖かったので安心しました。
私にとって滅茶苦茶驚くことがさらっと書いてあり、本当に読んでよかったです。ありがとうございます!!

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