長嶋茂雄という生き方
実績を上げた者の生き方には二種類ある。ひとつは華やかな時だけ現役で活躍し、力が衰えたら潔く引退するという生き方。江川卓や中田英寿がこのタイプかも知れません。そして、残りの人生は悠々自適の姿を見せる生き方でもあります。
もうひとつは、ボロボロになるまで現役で戦う姿を見せる生き方。三浦知良はこれに該当するでしょうね。イチローもこのタイプでしょう。
残りの人生も挑戦する姿を見せる生き方でもあります。
そして、長嶋茂雄はボロボロになるまで現役で戦う姿を見せる生き方を超えて、脳梗塞を発症し半身不随になった姿も皆に見せる。
私は、2021年の東京オリンピックで半身不随で不自由になった体を懸命に動かす長嶋の姿を見て、「長嶋は24時間長嶋茂雄なんだな」と思った訳である。
思えば、私達は長嶋をずっと見て来た。華やかなスターの時代から引退して監督になったが結果を出せず追われるように監督を辞任し浪人していた姿。そして脳梗塞を発症し半身不随になった姿も見ている。
私が凄いと思うのは、長嶋はどんな時でも自分のセルフイメージを維持していることだ。どんなに挫折しても高いセルフイメージを崩さない。
干されても卑屈にもならず、粗暴にもならず、投げやりにもならず、矢を全身に受けても巨象のように前に進むことができるのはなぜか?
高いセルフイメージを維持するのに必要なことは、「自分は出来る」という自信では無く、なんとしても実現したい「願望」である。
願望がない状態で高いセルフイメージも高いエフィカシーも維持できない。
行動には必ずベクトルが必要でベクトルの無い行動は破たんする。
長嶋茂雄の「願望」は「ファンを魅了したい」という心底の衝動である。
故にどんな苦難な時でも常に変わらぬ「いわゆるナイスな姿」を見ているから「長嶋茂雄は真のスーパースターだ」と確信するのである。
もしも長嶋が卑屈になったり粗暴になったり投げやりになったら「長嶋茂雄の晩年は残念だった」になると思うのだ。
例えば、美男子は女子にフラれても上司に叱られてもお客さんから怒鳴られても「美男子」である。
美男子にとって実績や成果は関係無い訳で美男子は外観状態を示している。外見が美形ならば「元美男子」にならない。
それと同じく長嶋茂雄は「元長嶋茂雄」にならない。惨めな状態でも非難の嵐の中でも「元スーパースター」にならないのだ。
それは「長嶋茂雄」は野球だけの成果実績での評価では無く、長嶋自身の存在が常に「スーパースター」であることに徹底しているからである。
長嶋茂雄のエピソードで、長嶋は外出する時はどんなに近所でもゴミを出しに行くときも「長嶋茂雄のイメージを崩さない為に」必ずテレビに出るような服装に着替える。
家に強盗が入って強盗が「長嶋はどこだ?」と聞いた時、2階にいた長嶋は強盗に会うために服を着替えていたそうであるが、長嶋は「24時間長嶋茂雄」を演じているのである。
それがなぜ出来るかというと、長嶋茂雄は好きな四文字熟語を聞かれた時「長嶋茂雄」と答えたことに理由がある。
つまり、長嶋茂雄は天皇や善光寺仏と同じ思考回路なのだと思う。
善光寺仏は、現代では、絶対秘仏で「スーパースターの阿弥陀像」であり、私は「日本一の仏像」だと思っている。
様々な奇跡の逸話も華々しい仏像で、一説には仏教の経典に出てくる神話的な仏像でインド時代の作である。
竜宮からインドへ渡り百済を経て日本へ渡った「阿弥陀仏」である。そもそも最初から最終的に日本へ来ることが予定された阿弥陀仏であると言われる。
その絶対的な存在から絶対的な力にあやかろうと様々な時代の最高権力者に利用された「仏像」でもある。
しかしながら、そんなに次元の高い仏像でありながら、過去には火の中に入れられたり、川に捨てられて何十年も川底で泥まみれな時もあったし、インドから中国に移動した経路も定かでなく、時には砂漠の中を家畜や荷物と共に運ばれた仏像であった。
大事なことは、善光寺仏はどんな悲惨な状態や危険な状態に晒されていても、常に「善光寺仏」であったという事である。
善光寺仏はどんな時でも「存在」を捨てることが無かったのである。
そう考えると、昭和天皇も戦後に「人間宣言」をされた後も存在が「現人神」であり続けたのも、長嶋茂雄がどんな状態でも「スーパースター」であり続けるのも、善光寺仏が「川の中でも善光寺仏であり続けたこと」と等しいのだ。
そして、長嶋茂雄の生き方で教えてくれることは、「自分の本質とは存在を演じる切ることで実在に為る。」ということである。
twitterはこちら。
エイジの部屋
mixiもやってます。
Eiji
Eijiで検索してください。現住所は岐阜です。
もうひとつは、ボロボロになるまで現役で戦う姿を見せる生き方。三浦知良はこれに該当するでしょうね。イチローもこのタイプでしょう。
残りの人生も挑戦する姿を見せる生き方でもあります。
そして、長嶋茂雄はボロボロになるまで現役で戦う姿を見せる生き方を超えて、脳梗塞を発症し半身不随になった姿も皆に見せる。
私は、2021年の東京オリンピックで半身不随で不自由になった体を懸命に動かす長嶋の姿を見て、「長嶋は24時間長嶋茂雄なんだな」と思った訳である。
思えば、私達は長嶋をずっと見て来た。華やかなスターの時代から引退して監督になったが結果を出せず追われるように監督を辞任し浪人していた姿。そして脳梗塞を発症し半身不随になった姿も見ている。
私が凄いと思うのは、長嶋はどんな時でも自分のセルフイメージを維持していることだ。どんなに挫折しても高いセルフイメージを崩さない。
干されても卑屈にもならず、粗暴にもならず、投げやりにもならず、矢を全身に受けても巨象のように前に進むことができるのはなぜか?
高いセルフイメージを維持するのに必要なことは、「自分は出来る」という自信では無く、なんとしても実現したい「願望」である。
願望がない状態で高いセルフイメージも高いエフィカシーも維持できない。
行動には必ずベクトルが必要でベクトルの無い行動は破たんする。
長嶋茂雄の「願望」は「ファンを魅了したい」という心底の衝動である。
故にどんな苦難な時でも常に変わらぬ「いわゆるナイスな姿」を見ているから「長嶋茂雄は真のスーパースターだ」と確信するのである。
もしも長嶋が卑屈になったり粗暴になったり投げやりになったら「長嶋茂雄の晩年は残念だった」になると思うのだ。
例えば、美男子は女子にフラれても上司に叱られてもお客さんから怒鳴られても「美男子」である。
美男子にとって実績や成果は関係無い訳で美男子は外観状態を示している。外見が美形ならば「元美男子」にならない。
それと同じく長嶋茂雄は「元長嶋茂雄」にならない。惨めな状態でも非難の嵐の中でも「元スーパースター」にならないのだ。
それは「長嶋茂雄」は野球だけの成果実績での評価では無く、長嶋自身の存在が常に「スーパースター」であることに徹底しているからである。
長嶋茂雄のエピソードで、長嶋は外出する時はどんなに近所でもゴミを出しに行くときも「長嶋茂雄のイメージを崩さない為に」必ずテレビに出るような服装に着替える。
家に強盗が入って強盗が「長嶋はどこだ?」と聞いた時、2階にいた長嶋は強盗に会うために服を着替えていたそうであるが、長嶋は「24時間長嶋茂雄」を演じているのである。
それがなぜ出来るかというと、長嶋茂雄は好きな四文字熟語を聞かれた時「長嶋茂雄」と答えたことに理由がある。
つまり、長嶋茂雄は天皇や善光寺仏と同じ思考回路なのだと思う。
善光寺仏は、現代では、絶対秘仏で「スーパースターの阿弥陀像」であり、私は「日本一の仏像」だと思っている。
様々な奇跡の逸話も華々しい仏像で、一説には仏教の経典に出てくる神話的な仏像でインド時代の作である。
竜宮からインドへ渡り百済を経て日本へ渡った「阿弥陀仏」である。そもそも最初から最終的に日本へ来ることが予定された阿弥陀仏であると言われる。
その絶対的な存在から絶対的な力にあやかろうと様々な時代の最高権力者に利用された「仏像」でもある。
しかしながら、そんなに次元の高い仏像でありながら、過去には火の中に入れられたり、川に捨てられて何十年も川底で泥まみれな時もあったし、インドから中国に移動した経路も定かでなく、時には砂漠の中を家畜や荷物と共に運ばれた仏像であった。
大事なことは、善光寺仏はどんな悲惨な状態や危険な状態に晒されていても、常に「善光寺仏」であったという事である。
善光寺仏はどんな時でも「存在」を捨てることが無かったのである。
そう考えると、昭和天皇も戦後に「人間宣言」をされた後も存在が「現人神」であり続けたのも、長嶋茂雄がどんな状態でも「スーパースター」であり続けるのも、善光寺仏が「川の中でも善光寺仏であり続けたこと」と等しいのだ。
そして、長嶋茂雄の生き方で教えてくれることは、「自分の本質とは存在を演じる切ることで実在に為る。」ということである。
twitterはこちら。
エイジの部屋
mixiもやってます。
Eiji
Eijiで検索してください。現住所は岐阜です。
この記事へのコメント
元付き人の蝶野さん曰く24時間アントンだったと。