現象はすべて正しい
現象に良い悪いは無い。じつは、自分にとって現象が都合が良いか悪いかしかないのである。
しかしながら、実際に自分にとって都合が良いのか悪いのかというのも不確実である。
確実に言えることは、現象は常に未来が良くなるように発生しているということである。
現象に偶然は無いのである。すべて必然であって、しかも現象は君を罰したり貶めるために具現発生していない。
ほんとうに君が良くなるためにだけ具現しているのである。
嘘だと思うかも知れないが本当である。なぜならこの世は宇宙脳の仮想現実の世界だからである。
故に、現象が善き方向に向かう為に発生していると考え、理不尽な仕打ちでも常に投げやりや不満不足の感情にならず、困難を「開運のチャンス」として捉え、如何に対処するのが良いのかを考察するべきである。
つまり、現象は開運のための試験問題として発生すると知ることである。
これは理屈では納得できてもリアルには受け入れがたいのが現実であるが、これが逆に真理である証明である。
例えば、私が理不尽な仕打ちを受けたとしましょう。この仕打ちは実は私が過去に犯した同等の罪の贖罪として発生しているのです。
よって、理不尽な仕打ちを甘んじて受け止め、謙虚にして積極的に生きるべきでありましょう。
以前にも書きましたが、「理不尽な試練に対しは、感情を乱さずさらに一歩積極・明朗・正直に頑張るべき」理由はそういうことなのであります。理不尽に対しては感情を乱さず積極的と言うのが開運の要である。
又、今ここにいわゆる現象が「善なる方向」に向かう具象であるという前提であるのならば、どのような対処が正解であるのか考察してみよう。
基本的に現象に対し、どのようなリアクションをするのが良いのか、つまり現象はどんなリアクションを我に望んでいるのかを常に考え、行動するという習慣が必要である。
例えば、いわゆる「とある選択を迫られる場合」については「情よりも義の優先」を基準とすることが純粋に正しい対処である。
義を基準とするというのは、勘定や感情よりも義理のある仕事・人を優先することである。
恋人よりも仕事を優先するということ、恋人よりも親を優先することである。
義理よりも感情を優先するのは優しい人のように思われるが実は「不徳」である。
又、人に対しては「礼義正しく」すること。礼儀というのは尊敬(リスペクト)の具象された形である。
誰に対しても礼を尽くすことである。
礼の具現は、愛語であったり和顔であったりするであろう。いわゆる行為の根底に「敬」があってのみ「礼」になる。
心で思うだけでは礼になりません。形になって初めて礼になるのである。
そして、「礼」の有る者は必ず尊敬されるでしょう。
又、過去に犯した罪に対しては、1の悪行は1の善行によって贖罪されるとは考えてはいけない。
汝の犯した罪は癒されず、死ぬまで罪の十字架を背負って生きるべきである。
つまり、罪に対する真の贖罪とは、罪の十字架を背負ったままで力強く前向きに生きることが真の贖罪になるのです。
善行すれば罪が消えるという考えでは罪が消えない。
そして「自分」に対しては、一番大事なのは「戦士的なナルシシズム」である。
そして、ナルシシズムとは美学である。自分は常に戦士であるという覚悟と、損得を超越した美学を持つことが「面白き人生」を送る基本である。
ちなみに、戦士的なナルシストは不細工でもモテるというのは「徳は孤ならず」ということで徳行を実践する者は決して孤立せずどんな時でも誰かが慕ってくれるという有難い真理であります。
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Eijiで検索してください。現住所は岐阜です。
しかしながら、実際に自分にとって都合が良いのか悪いのかというのも不確実である。
確実に言えることは、現象は常に未来が良くなるように発生しているということである。
現象に偶然は無いのである。すべて必然であって、しかも現象は君を罰したり貶めるために具現発生していない。
ほんとうに君が良くなるためにだけ具現しているのである。
嘘だと思うかも知れないが本当である。なぜならこの世は宇宙脳の仮想現実の世界だからである。
故に、現象が善き方向に向かう為に発生していると考え、理不尽な仕打ちでも常に投げやりや不満不足の感情にならず、困難を「開運のチャンス」として捉え、如何に対処するのが良いのかを考察するべきである。
つまり、現象は開運のための試験問題として発生すると知ることである。
これは理屈では納得できてもリアルには受け入れがたいのが現実であるが、これが逆に真理である証明である。
例えば、私が理不尽な仕打ちを受けたとしましょう。この仕打ちは実は私が過去に犯した同等の罪の贖罪として発生しているのです。
よって、理不尽な仕打ちを甘んじて受け止め、謙虚にして積極的に生きるべきでありましょう。
以前にも書きましたが、「理不尽な試練に対しは、感情を乱さずさらに一歩積極・明朗・正直に頑張るべき」理由はそういうことなのであります。理不尽に対しては感情を乱さず積極的と言うのが開運の要である。
又、今ここにいわゆる現象が「善なる方向」に向かう具象であるという前提であるのならば、どのような対処が正解であるのか考察してみよう。
基本的に現象に対し、どのようなリアクションをするのが良いのか、つまり現象はどんなリアクションを我に望んでいるのかを常に考え、行動するという習慣が必要である。
例えば、いわゆる「とある選択を迫られる場合」については「情よりも義の優先」を基準とすることが純粋に正しい対処である。
義を基準とするというのは、勘定や感情よりも義理のある仕事・人を優先することである。
恋人よりも仕事を優先するということ、恋人よりも親を優先することである。
義理よりも感情を優先するのは優しい人のように思われるが実は「不徳」である。
又、人に対しては「礼義正しく」すること。礼儀というのは尊敬(リスペクト)の具象された形である。
誰に対しても礼を尽くすことである。
礼の具現は、愛語であったり和顔であったりするであろう。いわゆる行為の根底に「敬」があってのみ「礼」になる。
心で思うだけでは礼になりません。形になって初めて礼になるのである。
そして、「礼」の有る者は必ず尊敬されるでしょう。
又、過去に犯した罪に対しては、1の悪行は1の善行によって贖罪されるとは考えてはいけない。
汝の犯した罪は癒されず、死ぬまで罪の十字架を背負って生きるべきである。
つまり、罪に対する真の贖罪とは、罪の十字架を背負ったままで力強く前向きに生きることが真の贖罪になるのです。
善行すれば罪が消えるという考えでは罪が消えない。
そして「自分」に対しては、一番大事なのは「戦士的なナルシシズム」である。
そして、ナルシシズムとは美学である。自分は常に戦士であるという覚悟と、損得を超越した美学を持つことが「面白き人生」を送る基本である。
ちなみに、戦士的なナルシストは不細工でもモテるというのは「徳は孤ならず」ということで徳行を実践する者は決して孤立せずどんな時でも誰かが慕ってくれるという有難い真理であります。
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この記事へのコメント
病により物事が思う通りに行かず
己の内に怒りがあり、これは人格をゆがませるほどの怒りで
厄介だぞと自覚したばかりの私には有意義な内容でした。
ありがとうございます。