感性によって人間性が決定される
よく「人間性を高める」というが人間性とは「知性」では無くて「感性」であると私は思う。感性が基になって感情や行動が生まれる訳ですので、従って「人間性を高める」とは「感性を高める」ということになるが、そもそも「感性」は筋肉や知性や感情のように「鍛えたり高めたりできるのか疑問」ではある。しかしながら「感性」こそ人間性のバロメーターである。
感性とは何かという説明として、私は昔の小学校の運動会での出来事を思い出します。
幼い時から身体に障害のある方が健常な息子が運動会で走っているのを見て嗚咽していました。
隣に座っていた私はてっきり「自分は走れなかったが息子は走れるのを見て嬉しいから泣いてるんだな」と思いました。
しかし泣きの理由を聞いてびっくりしました。
彼が泣いていたのは、「私は息子が走っている姿をみてこんなにうれしいのに、自分の親は私が走れなかったから悲しい思いしかさせられなかった。それが申し訳なくて泣けてきた。」というのです。
この「泣きところが違う」というのは、明らかに彼の人間性を示していると思われるのですが、それは「知性」でも「感情」でも無くて、強いて分類すれば「感性」の違いではないか。そして感性とは知能や知性もしくは経験によって高まるものでもないのです。
同じような話で、鈴木大拙という仏教学者が、親友の「善の研究」で有名な西田幾多郎が亡くなった時、玄関で泣き崩れて立てなかったという話があります。普通は親友が亡くなって淋しいから泣いてると思いますが、鈴木が泣いた理由は、「もう少し西田君が長生きしていれば、米国にいる私ならハイデッカーでも誰にでも遭わせてやることが出来て、西田の哲学もさらに深まったと思うのに、遭わせることが出来なかったことが無念で悲しくて泣けてきた。」そうである。
恐らく私ならここで、このような理由で泣き崩れることは出来ないと思うのです。つまり、この感性のエピソードだけで鈴木大拙は「無私の人」であり、人間の格が違っていたと判るのです。
私は確信を以て思うのは、聖人であった釈迦やイエスも、凡人とは泣きところが絶対に違ってた訳で、この泣きところが違うというのが「感性」の違いであり、「人間性」もしくは「神性の違い」「愛の深さの違い」「慈悲力の違い」ではなかろうか。
それで私は何を言いたいのか申しますと、善行を為す場合に我々は「動機」を重要視します。「他者の為」という動機でありながら実は「お金の為・売名の為」の場合もあろうかと思います。そして「他者の為」と純粋に思える人と「結局自分の為」としか思えない人の違いは何かというと「感性の相違」だと思うのである。知性や感情では無いのは確かである。
従って動機を変えるのにもっとも重要なことは「感性を磨く」ことであり「知性・感情・行動」は感性に付随した特性に過ぎないということである。動機こそ感性によって差がでると思われ、畢竟、感性の違いが動機の違いであり、結果として感性こそ人間性の違いであると思うのです。
さらに重要なことがあります。
それは、感情や念というのは、一種の粒子であり波動を形成し空間を支配するということです。
空間には電磁波や電波に混じって我々の感情の念波も飛んでる訳です。
誰でもイライラしていると機械が壊れたり隣人がイライラした経験があると思います。それは波動同調現象なのですが、そこで感性の高い人が存在すれば高い周波数の念波が出ているのでいわゆる「人間空間波動清浄機」になると思われるのです。
存在するだけで環境を守る人物という方が稀に存在しますが、そのような神のような方は、紛れもなく「感性の高い人」しか為れないと思うのです。知性や知能の高さ及び技能や経験の有無が感性の高さには成らないのです。
感性の高い方が多く為れば、必ず地球も高くなるでしょう。
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Eijiで検索してください。現住所は岐阜です。
感性とは何かという説明として、私は昔の小学校の運動会での出来事を思い出します。
幼い時から身体に障害のある方が健常な息子が運動会で走っているのを見て嗚咽していました。
隣に座っていた私はてっきり「自分は走れなかったが息子は走れるのを見て嬉しいから泣いてるんだな」と思いました。
しかし泣きの理由を聞いてびっくりしました。
彼が泣いていたのは、「私は息子が走っている姿をみてこんなにうれしいのに、自分の親は私が走れなかったから悲しい思いしかさせられなかった。それが申し訳なくて泣けてきた。」というのです。
この「泣きところが違う」というのは、明らかに彼の人間性を示していると思われるのですが、それは「知性」でも「感情」でも無くて、強いて分類すれば「感性」の違いではないか。そして感性とは知能や知性もしくは経験によって高まるものでもないのです。
同じような話で、鈴木大拙という仏教学者が、親友の「善の研究」で有名な西田幾多郎が亡くなった時、玄関で泣き崩れて立てなかったという話があります。普通は親友が亡くなって淋しいから泣いてると思いますが、鈴木が泣いた理由は、「もう少し西田君が長生きしていれば、米国にいる私ならハイデッカーでも誰にでも遭わせてやることが出来て、西田の哲学もさらに深まったと思うのに、遭わせることが出来なかったことが無念で悲しくて泣けてきた。」そうである。
恐らく私ならここで、このような理由で泣き崩れることは出来ないと思うのです。つまり、この感性のエピソードだけで鈴木大拙は「無私の人」であり、人間の格が違っていたと判るのです。
私は確信を以て思うのは、聖人であった釈迦やイエスも、凡人とは泣きところが絶対に違ってた訳で、この泣きところが違うというのが「感性」の違いであり、「人間性」もしくは「神性の違い」「愛の深さの違い」「慈悲力の違い」ではなかろうか。
それで私は何を言いたいのか申しますと、善行を為す場合に我々は「動機」を重要視します。「他者の為」という動機でありながら実は「お金の為・売名の為」の場合もあろうかと思います。そして「他者の為」と純粋に思える人と「結局自分の為」としか思えない人の違いは何かというと「感性の相違」だと思うのである。知性や感情では無いのは確かである。
従って動機を変えるのにもっとも重要なことは「感性を磨く」ことであり「知性・感情・行動」は感性に付随した特性に過ぎないということである。動機こそ感性によって差がでると思われ、畢竟、感性の違いが動機の違いであり、結果として感性こそ人間性の違いであると思うのです。
さらに重要なことがあります。
それは、感情や念というのは、一種の粒子であり波動を形成し空間を支配するということです。
空間には電磁波や電波に混じって我々の感情の念波も飛んでる訳です。
誰でもイライラしていると機械が壊れたり隣人がイライラした経験があると思います。それは波動同調現象なのですが、そこで感性の高い人が存在すれば高い周波数の念波が出ているのでいわゆる「人間空間波動清浄機」になると思われるのです。
存在するだけで環境を守る人物という方が稀に存在しますが、そのような神のような方は、紛れもなく「感性の高い人」しか為れないと思うのです。知性や知能の高さ及び技能や経験の有無が感性の高さには成らないのです。
感性の高い方が多く為れば、必ず地球も高くなるでしょう。
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この記事へのコメント
でしょうか?
鈴木大拙といえば禅なので、そう思ったのですが、違ったら済みません。
今回も面白い記事ありがとうございます。
感性が人間性に通じる
は納得ですね。
感性は高められるのか
又は変化するか
年齢や経験で、感動する瞬間が変わるので、変化するのではと思います。
ありがとうございます。>六花さん
鈴木大拙によれば「訓練」です。
特に感性を高めるには他者の為に仕事をすることを習慣にすることらしいです。>ねむさん