ナンバーワンの法則
もしもアナタがお見合いパーティに参加したとしましょう。男が50人で女が20人だったとします。アナタが周りの男を見渡して「俺がナンバーワンだな」と思ったとします。アナタが素直にそう感じたとします。そうすると、アナタの意中の女性と必ずカップル成立します。これが「ナンバーワンの法則」である。
つまり、限られた範囲の中で「俺がナンバーワンだ」と思った時、願望が達成できるように潮目が変わるのである。
「ナンバーワンじゃないけどそこそこかな」では勝ち目が無いし、「ナンバーツーかな」でもダメなのです。仮に「ナンバーツーかな?」で勝率五分五分である。「ナンバーワンだろうな」だと100%の勝率になります。
女性の参加メンバーが10人でも5人でも関係ありません。女性がハイスペックでも冷やかしの人が多くても関係ありません。「俺がナンバーワンだろうな」だと奇跡が起こります。それが「ナンバーワンの法則」である。
私が20代の頃の話ですが、夜の街に遊びに行きました。とあるクラブに入ってお酒を飲みながら周りを眺めたのです。大勢の男女がいましたが男を一人づつ観察していくと、なぜか唐突に「このフロアで俺が一番カッコいいかも知れないな」と思えた時、空気が変わりライトが変わり世界が変わりまして、いざ行動に移すと夜のMVP モテ男の一夜を過ごすことが出来ました。
同じような経験で「ボウリング」をしていた時ですが、ボウリングは滅多にやらないのでたまにするといつもは100そこそこしかいかないのですが、その日はやたら調子が良くて、ストライクが出て当たり前みたいな精神状態になった時、ピンが私に味方しているようで勝手に倒れて当たり前に連続でストライクが連発してハイスコアを記録したり、ゴルフでも「3オンが当たり前」になると成功するのが当たり前になりまして、そんな時は風もグリーンの芝もなぜか私に微笑んでくれるのです。
因みに、認知心理学では「自分が必ず出来ることを認識すること」をエフィカシーと言い、エフィカシーが高い者は「引き寄せ能力の高い者」であり「神がかり的な者」であると言われる。逆にエフィカシーが高い者でなければ決して神がかり的な力を発揮できない。
いわば「ナンバーワンの法則」の発動理由はエフィカシーの高さにあるといえましょう。
それでは、エフィカシーの高い者とはどんな者か説明しましょう。
私が目撃したエピソードで「エフィカシーが高い者」で思い出すのが、神がかり的な強さを発揮していた頃のタイガーウッズであります。
タイガーウッズが絶好調の時、ウッズは極めてエフィカシーが高かったのです。
日本でプレーした時に、ウッズは5番アイアンでミスショットをすると、怒って地面を思いきり5番アイアンで叩いたのです。
その時、杉原輝夫が解説していたのですが「ミスショットして地面を叩くなんて高慢である。トッププロなら謙虚に反省して自分の頭を叩け!」と怒っていました。誰もが「確かに!」と同感した日本人が多かったでしょう。
しかしながら、杉原は当時の至上最強のタイガーウッズが神がかり的な力を発揮し「エフィカシー」が異常に高かったことを知らなかったということであります。
というか神がかり的な偉業を為す者は「エフィカシー」が高くなければならないということを知らなかったと言わざるを得ない。
残念ながら凡人が天才の世界を知らないのと同じであります。
エフィカシーとは「自分が出来ることが神の意思である」という自己認識である。エフィカシーはセルフイメージに近いですが、セルフイメージよりももっと自己確信しています。つまり、自分が出来るのが「神意」であるからで失敗は「悪の所業」と考えます。
神がかり的というのは「実力」だけでなく「運」の要素も大きい。つまり、ここぞという時に神風が吹くことを「神がかり」という。
さて、そんな「自分が出来ることが神の意思である」と確信している者が失敗したらどう考えるかというと、
「神に選ばれし我がミスショットしたのは、我に味方しない環境やクラブやコース状態が悪い。」と考える。
決して自分が悪かったとは考えない。エフィカシーの高い者が自己反省するとしても「我らしくない」と考えて自己反省は決してしない。
つまり「エフィカシー」の高い者においては、自分の進む道で「足を引っ張る」モノは「消滅」か「我に従う」しかなく、自己反省という懐疑は決して存在しない。否 してはならないのだ。
エフィカシーは一種の精神高揚状態である故に我に戻った時、自己懐疑した刹那に神がかりが消えて墜落してしまうのであります。
ある有名な経営者が、優秀な経営者になるために、必要とされる必要な資質は何かと聞かれた時、
公に皆には言えないが、密かに「将来を期待する者」だけに伝えるとしたらという前提で
経営は格闘である。勝ち続ける為には経営者は間違った時でも決して自分を責めたり反省してはいけない
と言いました。
つまり優秀な経営者は常にエフィカシーを高く持たねばならないということです。
自己反省するとエフィカシーが低くなるので、格闘技の試合中に一瞬の隙が出来て負けるように、格闘技である経営に負けてしまうぞといことである。
自己反省するのは練習の時だけで試合中は自己反省はしてはいけない。
だから、神に選ばれしウッズは神の戦いであった試合中に邪魔が入ったので「我に従え」とゼウスの鉄槌のように地面を叩いたのである。
さて、ここで歴史を検証すると
欲望が強く、エゴが無く、エフィカシーが高い者が最強であるが、エフィカシーを高くエゴを低くするのは至難の業であるようだ。
現に、ゼウス神に等しかったタイガーウッズもエゴのブレーキを踏んでしまって転落してしまった。
そんな中で、エフィカシーの高い者で転落しなかった者達、マイケルジョーダンとかイチローが入ると思われるが、
彼らの共通点を鑑みると、エフィカシーの高い者が転落しない為には、エフィカシーの高い者は求道者のようにストイックであらねばならないということである。ストイックであるというのは、求道者のように禁欲的であるということであってどうもここは例外が無いようである。
twitterはこちら。
エイジの部屋
mixiもやってます。
Eiji
Eijiで検索してください。現住所は岐阜です。
つまり、限られた範囲の中で「俺がナンバーワンだ」と思った時、願望が達成できるように潮目が変わるのである。
「ナンバーワンじゃないけどそこそこかな」では勝ち目が無いし、「ナンバーツーかな」でもダメなのです。仮に「ナンバーツーかな?」で勝率五分五分である。「ナンバーワンだろうな」だと100%の勝率になります。
女性の参加メンバーが10人でも5人でも関係ありません。女性がハイスペックでも冷やかしの人が多くても関係ありません。「俺がナンバーワンだろうな」だと奇跡が起こります。それが「ナンバーワンの法則」である。
私が20代の頃の話ですが、夜の街に遊びに行きました。とあるクラブに入ってお酒を飲みながら周りを眺めたのです。大勢の男女がいましたが男を一人づつ観察していくと、なぜか唐突に「このフロアで俺が一番カッコいいかも知れないな」と思えた時、空気が変わりライトが変わり世界が変わりまして、いざ行動に移すと夜のMVP モテ男の一夜を過ごすことが出来ました。
同じような経験で「ボウリング」をしていた時ですが、ボウリングは滅多にやらないのでたまにするといつもは100そこそこしかいかないのですが、その日はやたら調子が良くて、ストライクが出て当たり前みたいな精神状態になった時、ピンが私に味方しているようで勝手に倒れて当たり前に連続でストライクが連発してハイスコアを記録したり、ゴルフでも「3オンが当たり前」になると成功するのが当たり前になりまして、そんな時は風もグリーンの芝もなぜか私に微笑んでくれるのです。
因みに、認知心理学では「自分が必ず出来ることを認識すること」をエフィカシーと言い、エフィカシーが高い者は「引き寄せ能力の高い者」であり「神がかり的な者」であると言われる。逆にエフィカシーが高い者でなければ決して神がかり的な力を発揮できない。
いわば「ナンバーワンの法則」の発動理由はエフィカシーの高さにあるといえましょう。
それでは、エフィカシーの高い者とはどんな者か説明しましょう。
私が目撃したエピソードで「エフィカシーが高い者」で思い出すのが、神がかり的な強さを発揮していた頃のタイガーウッズであります。
タイガーウッズが絶好調の時、ウッズは極めてエフィカシーが高かったのです。
日本でプレーした時に、ウッズは5番アイアンでミスショットをすると、怒って地面を思いきり5番アイアンで叩いたのです。
その時、杉原輝夫が解説していたのですが「ミスショットして地面を叩くなんて高慢である。トッププロなら謙虚に反省して自分の頭を叩け!」と怒っていました。誰もが「確かに!」と同感した日本人が多かったでしょう。
しかしながら、杉原は当時の至上最強のタイガーウッズが神がかり的な力を発揮し「エフィカシー」が異常に高かったことを知らなかったということであります。
というか神がかり的な偉業を為す者は「エフィカシー」が高くなければならないということを知らなかったと言わざるを得ない。
残念ながら凡人が天才の世界を知らないのと同じであります。
エフィカシーとは「自分が出来ることが神の意思である」という自己認識である。エフィカシーはセルフイメージに近いですが、セルフイメージよりももっと自己確信しています。つまり、自分が出来るのが「神意」であるからで失敗は「悪の所業」と考えます。
神がかり的というのは「実力」だけでなく「運」の要素も大きい。つまり、ここぞという時に神風が吹くことを「神がかり」という。
さて、そんな「自分が出来ることが神の意思である」と確信している者が失敗したらどう考えるかというと、
「神に選ばれし我がミスショットしたのは、我に味方しない環境やクラブやコース状態が悪い。」と考える。
決して自分が悪かったとは考えない。エフィカシーの高い者が自己反省するとしても「我らしくない」と考えて自己反省は決してしない。
つまり「エフィカシー」の高い者においては、自分の進む道で「足を引っ張る」モノは「消滅」か「我に従う」しかなく、自己反省という懐疑は決して存在しない。否 してはならないのだ。
エフィカシーは一種の精神高揚状態である故に我に戻った時、自己懐疑した刹那に神がかりが消えて墜落してしまうのであります。
ある有名な経営者が、優秀な経営者になるために、必要とされる必要な資質は何かと聞かれた時、
公に皆には言えないが、密かに「将来を期待する者」だけに伝えるとしたらという前提で
経営は格闘である。勝ち続ける為には経営者は間違った時でも決して自分を責めたり反省してはいけない
と言いました。
つまり優秀な経営者は常にエフィカシーを高く持たねばならないということです。
自己反省するとエフィカシーが低くなるので、格闘技の試合中に一瞬の隙が出来て負けるように、格闘技である経営に負けてしまうぞといことである。
自己反省するのは練習の時だけで試合中は自己反省はしてはいけない。
だから、神に選ばれしウッズは神の戦いであった試合中に邪魔が入ったので「我に従え」とゼウスの鉄槌のように地面を叩いたのである。
さて、ここで歴史を検証すると
欲望が強く、エゴが無く、エフィカシーが高い者が最強であるが、エフィカシーを高くエゴを低くするのは至難の業であるようだ。
現に、ゼウス神に等しかったタイガーウッズもエゴのブレーキを踏んでしまって転落してしまった。
そんな中で、エフィカシーの高い者で転落しなかった者達、マイケルジョーダンとかイチローが入ると思われるが、
彼らの共通点を鑑みると、エフィカシーの高い者が転落しない為には、エフィカシーの高い者は求道者のようにストイックであらねばならないということである。ストイックであるというのは、求道者のように禁欲的であるということであってどうもここは例外が無いようである。
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この記事へのコメント
三国志で蜀が魏に降伏した時に
蜀の姜維が剣を岩にたたきつけたのを思いだしました。そんな感じかな?と今思いました
少しズレてるかもしれませんが
私もテレビ中継でウッズを見てました
その後のタイガーは凄かったです。
まさに石川のギリギリアウトの逆転の記事ですね
なかなか面白いです。>6月様