エクスタシーと死
フランスの社会学者エドガール・モランは以下のように指摘している。
ホモ・サピエンスがオルガスムスのみならず、
あらゆる領域に求まる快楽は、満足の状態を越えて、死に至るまで満足出来ない。
つまり、人間は性行為においても、ギャンブルにおいても
快楽の味を知ったら最期、身体が硬直して震える状態になって、
いわゆる死ぬ寸前、破産する寸前になるまで満足できない。
ということだ。
これは、
人間の究極の幸せが「忘我」であることを示している。
僕がこの結論を面白いと思うのは、
個人の幸せを望むのが「自我 (エゴ)」の働きであると私達は考える訳ですが、
しかし、実際に幸せになるには「自我」を消失しなければらない。
という矛盾である。
ルーマニアの宗教学者エリアーデが指摘するところに因れば
「エクスタシー(忘我)」は「エグジスタンス(存在)」と同じであり、
「自分という存在の外側に立つ」ことであると定義する。
その例となるのが宗教であるとエリアーデは言う。
宗教とは「エクスタシーの技術」である。
人間にとって最高の癒しとなるものは宗教の本質と合致する。
無宗教の者は、宗教の好きな者よりも強そうに思えるが、
実際には信じる宗教のある者よりも遙かに脆いものである。
宗教によって、「神」に自分を捧げるとか、
「隣人の為に自分を犠牲にする」という思想や
「国家の為に自分を犠牲にする」のも、「エクスタシー」の原点なのだ。
しかしながら、「エクスタシー」とは単なる自己犠牲では無い。
「自己」が解放されることによって発生する「無我の快感」である。
それは、あたかも射精の瞬間に等しい。
動物的な衝動の果てに、衝動が解放される刹那に快感を得られるようなもの。
幸せって何だろう?
判らなくなった時、じつは、自分の幸せを求める己のエゴの衝動が幸せを妨げていて、
本当の幸せは「エゴの究極に自分を誰かの為に捧げる」という矛盾の境地に存在する。
つまり、「エゴを膨張させてエゴを爆発させる瞬間」だけに、
エクスタシーがあることを思い出すべきなのだ。
twitterはこちら。
エイジの部屋
mixiもやってます。
Eiji
Eijiで検索してください。現住所は岐阜です。
ホモ・サピエンスがオルガスムスのみならず、
あらゆる領域に求まる快楽は、満足の状態を越えて、死に至るまで満足出来ない。
つまり、人間は性行為においても、ギャンブルにおいても
快楽の味を知ったら最期、身体が硬直して震える状態になって、
いわゆる死ぬ寸前、破産する寸前になるまで満足できない。
ということだ。
これは、
人間の究極の幸せが「忘我」であることを示している。
僕がこの結論を面白いと思うのは、
個人の幸せを望むのが「自我 (エゴ)」の働きであると私達は考える訳ですが、
しかし、実際に幸せになるには「自我」を消失しなければらない。
という矛盾である。
ルーマニアの宗教学者エリアーデが指摘するところに因れば
「エクスタシー(忘我)」は「エグジスタンス(存在)」と同じであり、
「自分という存在の外側に立つ」ことであると定義する。
その例となるのが宗教であるとエリアーデは言う。
宗教とは「エクスタシーの技術」である。
人間にとって最高の癒しとなるものは宗教の本質と合致する。
無宗教の者は、宗教の好きな者よりも強そうに思えるが、
実際には信じる宗教のある者よりも遙かに脆いものである。
宗教によって、「神」に自分を捧げるとか、
「隣人の為に自分を犠牲にする」という思想や
「国家の為に自分を犠牲にする」のも、「エクスタシー」の原点なのだ。
しかしながら、「エクスタシー」とは単なる自己犠牲では無い。
「自己」が解放されることによって発生する「無我の快感」である。
それは、あたかも射精の瞬間に等しい。
動物的な衝動の果てに、衝動が解放される刹那に快感を得られるようなもの。
幸せって何だろう?
判らなくなった時、じつは、自分の幸せを求める己のエゴの衝動が幸せを妨げていて、
本当の幸せは「エゴの究極に自分を誰かの為に捧げる」という矛盾の境地に存在する。
つまり、「エゴを膨張させてエゴを爆発させる瞬間」だけに、
エクスタシーがあることを思い出すべきなのだ。
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この記事へのコメント
至高体験、に似ているような気がします。
http://www.geocities.co.jp/noboish/case/kakuseisiko.htm
エクスタシーというのは、真の幸福感をもたらすものであって、
一般的に使われる性的な「エクスタシー」とは異なるような。満足できないとなると、最初の例は、アディクション、中毒、というように思えますが、どうなんでしょう?
疑似エクスタシーと言えるのかもしれない。その辺の線引きは難しいですね。
宗教、学問、芸術、性、といったものに至高体験の幸福感が起こる場合がある、、、と思うんですが、それを利用する宗教、というのは実際に存在していますし、、、、気を付けるべきなんでしょう。
ただ、確かに自己執着は真の幸福感、、、至高体験のようなエクスタシーに至ることは無いと思います。忘我、、、の状態で何かに打ち込む状態。それは、真に生きるということでしょう。後付けで考えるようなことは、大したことではない。ただ意識だけが先鋭化したような状態、、、、そこに邪心など入る余地も無い状態は、たとえエクスタシーまで到達しなくとも、ある程度の幸福感をもたらしてくれますよね。
執着、、、というのは良くありませんね、確かに。
意識、精神が研ぎ澄まされた状態を維持すべきだな、と思います。
いつも、興味深い記事を本当にありがとうございます
忘我は歳をとるにつれ難しくなりますね。やはり、家族とか仕事とか色々なしがらみが増えますから。
でも、それを少しでも体験したい。
お酒とか安易な方法で逃げるのではなく、積極的に自分から行動して我を忘れたいなぁ。
AKBの総選挙で怖いのは、あの悔し涙を延々と公共の電波で訴える姿ですね。
CD買うのもエクスタシーと見ます。
谷口雅春が、特に女性には学校教育に宗教教育を入れた方がいいと言っていたようですが、女性は信じたいという本質、ロマンチストだから、神を信じて悲劇が救われるなら、私は娘をそういう学校に入れてもいいかなと思いました。まあ、宗教団体にもよるので慎重に選ばないといけないけど。
谷口雅春は肉体的な欲求を充たすことは地獄に向かうというけれど、エゴの欲求エクスタシーを満たしたいっていつでもどこでも私は夢見てますし。他者に自分を捧げるって我が子以外には今はできないです。
先日、劇団ひとりの青天の霹靂という映画を鑑賞しました。自分が生まれた当時タイムスリップするストーリーですが、私も自分が生まれた時の両親の姿を見てみたい。私は祝福されて生まれてきたのかなということが知りたいと思うのですが、こんなことを思うことも幸せを妨げているんですかね?
エイジさんって知的なエロチック過ぎますわ♪
なぜかというと、
「神様を信じ切れなかったから」
だそうです。
87才の祖母は、30代の時からずっと今まで信じています。
エイジさんどう思われますか?
私は今まで 、宗教や特定の誰かを精神的支柱とするなんて依存だと、弱いんだと、それほどまでに誰かに頼りたいんだなんて やっぱりそんな事する奴は弱いんだと思っていました。
でも、本当はそうゆう人達の方が遥かに強いって事なんでしょうか。
私は依存なんかせず自分の脚で立ち続ける事が、カッコイイと本当の強さなんだと思っていました。
でも、違ったんでしょうか。
やっぱり自分一人で立ち続ける事は私じゃ無理なのかな・・・
私も精一杯自分の脚で立ち続けてるつもりだけど、やっぱりどうしようもなくなったら誰かに外に救いを求めるんだと思います。
足元すくわれそうで、こわいな。。。
って事ですよね、
わかっています。
でも、過食がやめられません。
苦しいのに、無理矢理にでも食べ続けてしまいます。
宇津木先生の本で、石鹸&シャンプーを断って、天風先生の影響で肉食を(なるべく)断って、もともと薬が苦手だったこともあり、近藤先生の本で薬&検査を(なるべく)なくし…人間の体の素晴らしさを感じるようにしています。
人それぞれ信じるものを見つけて、それを信念にしていけば、自信を持って生きていけるような気がします。
自分を誰かのために捧げる~とは特定の者ではなく(家族とかではなく)自分が縁する様々な人々に~なのでしょうか?
自分の子どもに捧げる、となると子どもは窮屈でしょう?
レプティリアンは、蛇神に対するネガティブキャンペーンなのか?ということを調べておりましたら、偶然こちらのブログにたどり着きました。
過去の記事を色々読ませていただいたら、面白くて、面白くて。
エイジさんは、お若そうなのに、すごい洞察力をお持ちですね!びっくりです。
これからも楽しみにしています♪
生活の中で瞑想という行為を入れることはエクスタシーの体験だと思います。>ごまあざらしさん
CDを買うのはエクスタシーでしょうね>六条さん
エゴの延長にエクスタシーがあると思います。
いや!エゴの延長以外に無いでしょう。肉欲上等です。>咲子さん
知的なエロとは有り難いお言葉です。>リリスさん
状況から分析すると走れメロスじゃなくて「走れよ!メロス」らしいですよ>葉月さん
私は思うのですが、信仰に誤りがあるかもしれませんが
信仰を熱心にする人は素晴らしいと思います。
つまり、宗派さまざまでも信仰心のある人は信用できます。
これはフリーメーソンの入会条件でもあります。>誠さん
過食は吐くでしょ?
だから治らないのです。吐かずに食べれば治るのです。>莉音さん
近藤先生???もしや三重県の近藤先生ですか?漢方の?>ゆみこさん
自分のエゴを無くすのではなくて、拡大させて爆発してしまえ!
ということです>JANEさん
ちなみに竜神はレプティリアンではありませんよ>ひなさん
いえ、レプティリアンという発想がどこから出てきたのかな?ということなのですが、これは蛇・龍をネガティブなイメージにし、忌み嫌うようにするためという思惑がある気がしたのです。
龍・蛇神の復活は、そんなに恐れられているのでしょうかね。
残念ながら批判などもされている、近藤誠先生のことでした💦