陰徳を積むとは何か?
陰徳あれば必ず陽報ありという諺があります。
「人知れず良いことをすれば良い事が起こる。」という意味だと説明される。
それでは、「良い事が起こることを期待して人に恩を売るのは?」というと
それは「陰徳」にはならないと言われる。
なんらかの仏教の本で読んだ話ですが
大金持ちが「私は貧しい人に多くの施しをしましたが良いことでしょうか?」
と聞いたら、高僧が「なんの良いこともしてない!」と言い放ち、
「なんらかの報酬を求めて施していてはなんの功徳にもならんわ!」と喝破したらしいが
これは非常に誤解されやすい話である。鵜呑みしてはいけません。
この話の最大の間違った解釈は、
「報酬を考えず、自分が損して人に尽くすことが陰徳です。」という考えです。
この考えは、もしかしたら「お寺に大金を施せば陰徳になります」という考えに変化します。
よくある間違った解釈は、
「報酬を求めないで布施すれば良いことがある。」という考えです。
これも良いように思えますが、報謝を求めない=良いがある ことなので理論が矛盾しています。
現に、この概念を都合の良いように解釈し、
あたかも「教団や僧への布施」こそ「徳」であるとする宗教団体が存在します。
この行為は、儒学の「徳」の考えでは、間違いなく「善徳」ではなく「悪徳」である。
「陰徳陽報」とは、本来「儒教」であり、陰徳を積めば必ず良いことがあると言う意味は同じであります。
恐らく、この真理は絶対的な真理であり、決して宗教や哲学によって違いがあるわけで無く、
正確なことだと思われる。
しかしながら陰徳の説明が儒学から離れて自分勝手な解釈をすると大きくズレます。
一般的に陰徳とは、「報酬を考えず、人に尽くすこと」とか
「誰にも判らないように良いことをする」と簡単に書かれていますが、
曖昧で、よく判らないだけでなく、それは一面であり完全な説明では無いと思われる。
そもそも、どうやって「報酬を考えず、人に尽くすこと」が可能になるでしょう?
この一点だけでも多くの人が「陰徳の実践」を諦めるでしょう。
曖昧であるということは、曲がった解釈や誤った解釈を産む。
そこで今回は正しく本来の儒教的に「陰徳を積む」を考察しようと思う。
いきなり結論ですが、
陰徳というのは、
「義・礼・智・忠・信・孝・悌」を行う事
であります。
そもそも儒教的な「徳」とは何かといいますと、
優しさや気品といった人間本来の良き精神を示すものではなく、
天分が社会的経験や道徳的訓練によって後天的に獲得するものであり、
誰でも経験や教育によって善き人間の特質となりえる後天的な精神である。
つまり、徳は訓練によって得られる「善因」であるということであります。
それを「人知れず積みなさい」ということですから、
基本的に「陰徳」とは、
「報酬を考えず良いことをする」→「後で良いことがある」では無く、
「自己鍛錬の為に報酬を考えず良いことをする」という姿勢である。
また、「仁」とは何かという説明に、
「心優しいこと」とか「人の痛みが判ること」という説明がありますが
それも間違いではないが、不完全であります。
心優しいが、裏表のある人は仁者ですか?
心優しいが、秩序を守らない人は仁者でしょうか?
心優しいが、強欲の人は仁者でしょうか?
正しくは、「義・礼・智・忠・信・孝・悌」を行う事を「仁」という
のです。
では、肝心の説明です。
「義・礼・智・忠・信・孝・悌」とは何か?
義とは、正しいことならば、例え自分が犠牲になっても行うこと
礼とは、どんな相手でも尊敬して接すること
智とは、原因と結果を明らかに観ること
忠とは、裏表のない行動
信とは、言葉と行動が一致すること
孝とは、恩に報いること・・・親や神や恩人の恩に報いること
悌とは、秩序を守ること・・・秩序維持の為に、法律・先輩・上司を立て自我を出さないこと
です。
この徳目をすべて守って実践しようと日々鍛錬することは、
非常に困難で「人知れず努力すること」に他ならない。
ですから、「陰徳あれば必ず陽報あり」という諺の本当の意味とは
「義・礼・智・忠・信・孝・悌」を実践しようと生き方を正す事を陰徳を積むと言い、
常に自分を高める努力をする生き方を実践する者には、善い事があるという意味なのです。
twitterはこちら。
エイジの部屋
mixiもやってます。
Eiji
Eijiで検索してください。現住所は岐阜です。
「人知れず良いことをすれば良い事が起こる。」という意味だと説明される。
それでは、「良い事が起こることを期待して人に恩を売るのは?」というと
それは「陰徳」にはならないと言われる。
なんらかの仏教の本で読んだ話ですが
大金持ちが「私は貧しい人に多くの施しをしましたが良いことでしょうか?」
と聞いたら、高僧が「なんの良いこともしてない!」と言い放ち、
「なんらかの報酬を求めて施していてはなんの功徳にもならんわ!」と喝破したらしいが
これは非常に誤解されやすい話である。鵜呑みしてはいけません。
この話の最大の間違った解釈は、
「報酬を考えず、自分が損して人に尽くすことが陰徳です。」という考えです。
この考えは、もしかしたら「お寺に大金を施せば陰徳になります」という考えに変化します。
よくある間違った解釈は、
「報酬を求めないで布施すれば良いことがある。」という考えです。
これも良いように思えますが、報謝を求めない=良いがある ことなので理論が矛盾しています。
現に、この概念を都合の良いように解釈し、
あたかも「教団や僧への布施」こそ「徳」であるとする宗教団体が存在します。
この行為は、儒学の「徳」の考えでは、間違いなく「善徳」ではなく「悪徳」である。
「陰徳陽報」とは、本来「儒教」であり、陰徳を積めば必ず良いことがあると言う意味は同じであります。
恐らく、この真理は絶対的な真理であり、決して宗教や哲学によって違いがあるわけで無く、
正確なことだと思われる。
しかしながら陰徳の説明が儒学から離れて自分勝手な解釈をすると大きくズレます。
一般的に陰徳とは、「報酬を考えず、人に尽くすこと」とか
「誰にも判らないように良いことをする」と簡単に書かれていますが、
曖昧で、よく判らないだけでなく、それは一面であり完全な説明では無いと思われる。
そもそも、どうやって「報酬を考えず、人に尽くすこと」が可能になるでしょう?
この一点だけでも多くの人が「陰徳の実践」を諦めるでしょう。
曖昧であるということは、曲がった解釈や誤った解釈を産む。
そこで今回は正しく本来の儒教的に「陰徳を積む」を考察しようと思う。
いきなり結論ですが、
陰徳というのは、
「義・礼・智・忠・信・孝・悌」を行う事
であります。
そもそも儒教的な「徳」とは何かといいますと、
優しさや気品といった人間本来の良き精神を示すものではなく、
天分が社会的経験や道徳的訓練によって後天的に獲得するものであり、
誰でも経験や教育によって善き人間の特質となりえる後天的な精神である。
つまり、徳は訓練によって得られる「善因」であるということであります。
それを「人知れず積みなさい」ということですから、
基本的に「陰徳」とは、
「報酬を考えず良いことをする」→「後で良いことがある」では無く、
「自己鍛錬の為に報酬を考えず良いことをする」という姿勢である。
また、「仁」とは何かという説明に、
「心優しいこと」とか「人の痛みが判ること」という説明がありますが
それも間違いではないが、不完全であります。
心優しいが、裏表のある人は仁者ですか?
心優しいが、秩序を守らない人は仁者でしょうか?
心優しいが、強欲の人は仁者でしょうか?
正しくは、「義・礼・智・忠・信・孝・悌」を行う事を「仁」という
のです。
では、肝心の説明です。
「義・礼・智・忠・信・孝・悌」とは何か?
義とは、正しいことならば、例え自分が犠牲になっても行うこと
礼とは、どんな相手でも尊敬して接すること
智とは、原因と結果を明らかに観ること
忠とは、裏表のない行動
信とは、言葉と行動が一致すること
孝とは、恩に報いること・・・親や神や恩人の恩に報いること
悌とは、秩序を守ること・・・秩序維持の為に、法律・先輩・上司を立て自我を出さないこと
です。
この徳目をすべて守って実践しようと日々鍛錬することは、
非常に困難で「人知れず努力すること」に他ならない。
ですから、「陰徳あれば必ず陽報あり」という諺の本当の意味とは
「義・礼・智・忠・信・孝・悌」を実践しようと生き方を正す事を陰徳を積むと言い、
常に自分を高める努力をする生き方を実践する者には、善い事があるという意味なのです。
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エイジの部屋
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Eiji
Eijiで検索してください。現住所は岐阜です。
この記事へのコメント
私はそういった向上心とか無いし、湧いてきません。ありません。
やはり、自分の憧れとなる人がいないとなかなか難しいものですね。
憧れの人に近づきたいという想いがあるのとないのでは全然違います。
ある人が言っていたのですが、ニートがこんなに増えてしまった一つの要因は身近に憧れとなる人がいないためだと。
周りにいる大人を見て将来自分もああなるのかと思うとぞっとしてしまい、また日本は物が豊富な分所得があまりなくてもそこそこ生きられる。
そうした事が若者の生きる気力を奪っていると言っていました。
格好つけるわけではないですが、後の世代に少しでも憧れてもらえる大人になりたいです。 反省の意味も込めて。
しかし老後の人格を比較しますと耐えてしのいだ方というのは本当に差が出てますね。ブレもないです。
陰徳…。確かに仰るとおりですね。そして難しい!
私はなぜかここ10年弱の間不遇の人生を送ってますが、人間として徳を積む大切さを忘れてしまいそうになるほど辛いことがあります。不遇の時代をどう過ごすか…陰徳にかかってるのでしょうね。
南総里見八犬伝でした。
あれっ 仁は?
って読み進むうちに仁とはそれらを
総括する意味だったのですね。
正しく良心に恥じぬ生き方をし続けた
のち、その恩寵として陰徳が授かるんですね。
有難いです。
いつも良い話をありがとうエイジさん。
陰徳と言っていいのか、出来る範囲で
それなりの努力を積み重ねていくと、
年齢が高くなってからの方が楽しくなりますね、たぶん。
それは話の通じる素敵な方々とのふれあいを
楽しめるようになるから、ではないか、と思う。
言葉に重みが出るようになってきた友人知人たちの話を
聞くのは興味深いし、楽しい。
もちろん「できる範囲のことしかできない」のだけれど、
世の中、や、周囲に貢献することを考え、
自分に何ができるかを考え、、、、。
エイジさんのお話も、陰徳の結果なんですね。
子供を言い訳に疲れてて何も陰徳を積んでないオバサンは、白馬に乗った王子様が現れないかなと旦那と喧嘩するたびに思います(^^;)
マンガでは出来すぎてどうでしょうかw
陰徳ならここで知った白隠禅師のあるがままの現状を受け入れてブレない姿こそ本当の陰徳ですよ。
一見簡単な事のように見えて、なかなか全部は実践出来ない人のほうが多分、多いような…。
(私も勿論その1人。)
私の人生の中では、これを全部完全に出来ている人には、まだ会った事はないです。居たら凄いですよね。
仏教ブログ関係を巡っていたらこちらにたどり着いた通りすがりの者です。
陰徳については小林正観さんも似たようなことを本で読みました。一致するブロガーさんに出会えたのも何かのサインかもしれませんね。
面白そうなので早速読ませていただきます。それでは(^^)
憧れの対象がある=目標ですから、目標が大事なのですね>ごまあざらしさん
ありがとうございます。嬉しいです>じゃじゃ馬さん
50歳までは、自己中で頑張って、
50歳以後は、周りと強調していくるのがもっとも運が良い生き方だと
稲盛さんが書いていたような気がします>六条さん
不遇のときでも、「どうなりたいか?」を明確にすることです。
どうなりたいか?が無いとずっと不遇ですよ>Janeさん
そうなんです。
仁がポイントなのです。さすがね>ららあさん
徳があるとか無いとかいいますが、
徳とは「義礼智忠信孝悌」を行って初めて身に付くものらしいです>カコさん
人の見ていない処の自分の在り方こそまさに徳です>咲子さん
おおお!なるほど!凄いね>孫悟空さん
白隠は達人ですからね>六条さん
案外目指すと出来るようになると思います。>葉月さん
小林正観もおなじことを書いていますか?そうなんですね>あきほさん
どうなりたいか、あります!ありありとあるのに、目の前の現実がかけ離れている、そして問題が次から次に湧いて出てきて、笑っちゃうくらいなんです。
どうなりたいか、というより、本来のわたしはこう、というのがあるというのに、目の前の問題が生きる気力を奪っていくのです。
でも、周りは自分の鏡なのです。