神頼みの極意
かなり出世した人のお母様の葬儀に行ってきたのですが、
さすが権力者だなと思ったのは、通夜に参列する人が多いので、
近所の大きなお寺の駐車場を借りて、そこからバス3台でピストン輸送し、
人が入りきれないので通夜を二部に分けて行なったことであります。
ちなみに葬儀は、権力者の息子の母親の葬儀な訳ですが、
その葬儀で聞いた話しによると、
息子がこれほどまでに出世できたのは、お母さんのお蔭らしいのです。
彼女は日頃から「○○寺様のお蔭で幸せだ」という話をいつもして、
毎朝5時に起きて、○○寺の掃除を30年間毎日続けていたそうである。
毎朝、掃除に来るので僧侶達とも仲良くなり、
お寺の中のお手伝いもするようになったそうである。
先ほど書いたピストン輸送した駐車場を持つ大きな寺というのは、
実は、この○○寺であり、
このような事が出来たのも、彼女だから「可能」になったそうである。
(ちなみに○○寺は、日本中で誰でも知ってる大きな寺院で、
いくら凄い権力者でも、身内の葬式の為に駐車場を貸すことは無いそうです。)
こんなことを書くと、
「信仰によって息子が出世できた話」と思われがちであるがそうではない。
神は信仰によっては動かない
しかし神は動くのです。
何に対し、動くかというと、
神は「犠牲」によってのみ動くのであります。
彼女は何を犠牲にしたのかというと「自己犠牲」である。
毎朝30年もの間、無償で掃除をしたという自己犠牲に神は応えたのである。
決して、彼女が毎日「祈る」とか「頼む」という信仰に応えたのではないのです。
彼女の「感謝しながら自己犠牲をした」という信心に応えたのあります。
信仰と信心は大きく違うのであり、宗教は信心だけが本物です。
神が犠牲に報いるという話は、
聖書の中に読み取ることが出来ます。
聖書、レビ記に次のような記載がある。
この短い一節に、生贄とスケープゴートの違いがはっきりと書かれている。
神の「祝福を得るために」行なわれるのが生贄であるのに対して、
「己の罪を許してもらうために」行なうのがスケープゴートである。
祝福には代償が必要であるし、罪人は死なずに、荒野を彷徨うのである。
ちなみに「アザゼル」とは悪魔である。
この話を、「キリスト教は生贄を要求する宗教」という解釈してはならない。
神がもっとも嫌うのは「利己主義」であり、
利己主義の対極にある「自己犠牲」を神は尊ぶと解釈すべきなのです。
そして、「自己犠牲を厭わない者」の願いは、
必ず叶えてあげますと神は約束するのです。
即ち、神の子羊であるイエスが自分を犠牲にして、
罪深きアダムの子孫を救済しようと決意したように、
神が自己犠牲を尊ぶのは、神自身が自己犠牲を厭わないからである。
大本教の教祖の出口 王仁三郎によれば、
「思慮深いとか信心深いとかいうような、
いわゆる善人だけでは天国に入れない。
天国に入るには、他人のために血を流すような犠牲的行為が必要である」
と書いています。
一般的に、「この世で善人だったから天国に行けるであろう」と人は誰しも思うでありましょう。
しかし、王仁三郎によれば、
単に善人だけでは死んでから、人間霊界の上級界までしかいけないらしい。
魂の世界では、犠牲を払っていない善人は、本物の善人ではないのである。
本物の善人とは、他者のためになにかしらの犠牲的行為を行った人物を言う。
そして、犠牲的行為こそ、
神に好かれる最良かつ唯一の方法であり、
この世で自らを犠牲として、他の命を救った者は神から無限に祝福されるのです。
ですから、
神頼みで幸せになりたいと念ずるのならば、
神に真摯に自分の願いをお願いするだけでなく、
生活の中で、他者のためになにかしらの生贄的な善行を継続的に行うことが重要である。
「生贄的善行」とは、「単に良い行為」ではなくて、
「自分が損して捧げる」ということであります。
例えば、「貧しい人に要らない服をあげる」のではなく、
「貧しい人に新品の服をあげる」ような痛みを伴う善行です。
或いは、「道に迷った人に道を教える」だけでなく、
「目的地までの電車賃も差し上げる」
ような自分が痛む善行でなくては、生贄とは言えない。
なぜなら、神への生贄は、
神様に捧げるのである故に「自分の大事なモノ」でなければならない筈です。
生贄は、けっして「要らないモノ」であってはならないのです。
そして、そのような生贄を捧げるのならば必ず願いが叶う。
でも、それは、聖書に書かれているような、
羊や自分の子供の命を投げ出す行為ではありません。
いうならば、生贄とは、自分のもっとも大事なモノを神に捧げることである。
故に、最高の生け贄は、自分という存在を犠牲にして、
他の人の為に尽くすことであると判る。
どんな職業であっても、どんな境遇であっても、
例え行為が無駄になったとしても、
自分の為ではなく、世の為に人の為にと働いた行為は
生け贄の血を流したことと等しい故に、
そのような人の願いは、神は必ず叶えてくれるのです。
単に、毎日祈っても、寄付したり善行をしても、
自己犠牲を行わなければ、神の祝福は得られないのです。
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Eijiで検索してください。現住所は岐阜です。
さすが権力者だなと思ったのは、通夜に参列する人が多いので、
近所の大きなお寺の駐車場を借りて、そこからバス3台でピストン輸送し、
人が入りきれないので通夜を二部に分けて行なったことであります。
ちなみに葬儀は、権力者の息子の母親の葬儀な訳ですが、
その葬儀で聞いた話しによると、
息子がこれほどまでに出世できたのは、お母さんのお蔭らしいのです。
彼女は日頃から「○○寺様のお蔭で幸せだ」という話をいつもして、
毎朝5時に起きて、○○寺の掃除を30年間毎日続けていたそうである。
毎朝、掃除に来るので僧侶達とも仲良くなり、
お寺の中のお手伝いもするようになったそうである。
先ほど書いたピストン輸送した駐車場を持つ大きな寺というのは、
実は、この○○寺であり、
このような事が出来たのも、彼女だから「可能」になったそうである。
(ちなみに○○寺は、日本中で誰でも知ってる大きな寺院で、
いくら凄い権力者でも、身内の葬式の為に駐車場を貸すことは無いそうです。)
こんなことを書くと、
「信仰によって息子が出世できた話」と思われがちであるがそうではない。
神は信仰によっては動かない
しかし神は動くのです。
何に対し、動くかというと、
神は「犠牲」によってのみ動くのであります。
彼女は何を犠牲にしたのかというと「自己犠牲」である。
毎朝30年もの間、無償で掃除をしたという自己犠牲に神は応えたのである。
決して、彼女が毎日「祈る」とか「頼む」という信仰に応えたのではないのです。
彼女の「感謝しながら自己犠牲をした」という信心に応えたのあります。
信仰と信心は大きく違うのであり、宗教は信心だけが本物です。
神が犠牲に報いるという話は、
聖書の中に読み取ることが出来ます。
聖書、レビ記に次のような記載がある。
アロンは二匹の雄山羊についてくじを引き、 一匹を主のもの、他の一匹をアザゼルのものと決める。 アロンはくじで主のものに決まった雄山羊を贖罪の献げ物に用いる。 くじでアザゼルのものに決まった雄山羊は、 生きたまま主の御前に留めておき、贖いの儀式を行い、 荒れ野のアザゼルのもとへ追いやるためのものとする。 |
この短い一節に、生贄とスケープゴートの違いがはっきりと書かれている。
神の「祝福を得るために」行なわれるのが生贄であるのに対して、
「己の罪を許してもらうために」行なうのがスケープゴートである。
祝福には代償が必要であるし、罪人は死なずに、荒野を彷徨うのである。
ちなみに「アザゼル」とは悪魔である。
この話を、「キリスト教は生贄を要求する宗教」という解釈してはならない。
神がもっとも嫌うのは「利己主義」であり、
利己主義の対極にある「自己犠牲」を神は尊ぶと解釈すべきなのです。
そして、「自己犠牲を厭わない者」の願いは、
必ず叶えてあげますと神は約束するのです。
即ち、神の子羊であるイエスが自分を犠牲にして、
罪深きアダムの子孫を救済しようと決意したように、
神が自己犠牲を尊ぶのは、神自身が自己犠牲を厭わないからである。
大本教の教祖の出口 王仁三郎によれば、
「思慮深いとか信心深いとかいうような、
いわゆる善人だけでは天国に入れない。
天国に入るには、他人のために血を流すような犠牲的行為が必要である」
と書いています。
一般的に、「この世で善人だったから天国に行けるであろう」と人は誰しも思うでありましょう。
しかし、王仁三郎によれば、
単に善人だけでは死んでから、人間霊界の上級界までしかいけないらしい。
魂の世界では、犠牲を払っていない善人は、本物の善人ではないのである。
本物の善人とは、他者のためになにかしらの犠牲的行為を行った人物を言う。
そして、犠牲的行為こそ、
神に好かれる最良かつ唯一の方法であり、
この世で自らを犠牲として、他の命を救った者は神から無限に祝福されるのです。
ですから、
神頼みで幸せになりたいと念ずるのならば、
神に真摯に自分の願いをお願いするだけでなく、
生活の中で、他者のためになにかしらの生贄的な善行を継続的に行うことが重要である。
「生贄的善行」とは、「単に良い行為」ではなくて、
「自分が損して捧げる」ということであります。
例えば、「貧しい人に要らない服をあげる」のではなく、
「貧しい人に新品の服をあげる」ような痛みを伴う善行です。
或いは、「道に迷った人に道を教える」だけでなく、
「目的地までの電車賃も差し上げる」
ような自分が痛む善行でなくては、生贄とは言えない。
なぜなら、神への生贄は、
神様に捧げるのである故に「自分の大事なモノ」でなければならない筈です。
生贄は、けっして「要らないモノ」であってはならないのです。
そして、そのような生贄を捧げるのならば必ず願いが叶う。
でも、それは、聖書に書かれているような、
羊や自分の子供の命を投げ出す行為ではありません。
いうならば、生贄とは、自分のもっとも大事なモノを神に捧げることである。
故に、最高の生け贄は、自分という存在を犠牲にして、
他の人の為に尽くすことであると判る。
どんな職業であっても、どんな境遇であっても、
例え行為が無駄になったとしても、
自分の為ではなく、世の為に人の為にと働いた行為は
生け贄の血を流したことと等しい故に、
そのような人の願いは、神は必ず叶えてくれるのです。
単に、毎日祈っても、寄付したり善行をしても、
自己犠牲を行わなければ、神の祝福は得られないのです。
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この記事へのコメント
自己犠牲は、「貧しい人に自分の大切なモノをあげたり」とありますが、
自己を「犠牲にしておこなっている」という意識を持ったままでも効果はあるのでしょうか?
昔は、人柱を捧げて生贄にする儀式がありました。
生贄になる人が望んでいなくても、命を犠牲にして神に捧げる行為は効果があるそうですが、意味として近いですか?
自分の時間を他者のために動くことばかりに
費やしている場合はどうなのでしょう?
それは自己犠牲となりますか?
ああ、今日もまた家族や仕事のことで一日が終わり
自分の時間がほとんどなかったな、自分のことは後回しだな
と思って眠りにつくことが多いのですが(^_^;
それから、お寺ではないですけど、
特にご縁のなかった小さな神社があまりにも落ち葉などで
汚い状態になっていたので、ほうきで全部掃除をしたことがあります。
ようやく境内の地面と参道が見えた時には、すがすがしく感じました。
だから神様に何かしてほしいとは思わないのですけど、
喜んでくださったらいいなとほんのり思ったことを思い出しました。
自己犠牲を心から喜んで出来る自己犠牲、なかなか難しいのかな。
スピリチュアルな能力のある人達が、人の人生を豊かなものにする、また問題解決の方法を教えるような時、高額でも多少でも報酬を得ることに違和感を感じてしまいます。神様は、宇宙は、他を助ける能力を利己的な儲けの為に与えてないんじゃないの!?と思っています。自己犠牲で人助けを喜んでするならば、自ずと守られるのではないかなと思っているのです。
だけど、未だにそんな人には出会っていません。エイジさんをのぞいては。
年に何回かのお布施の請求や、これから未来にあるはずの我が家のお葬式に関しての多額の出費など。
信仰心の無い私には、どうしてもお坊さんが守銭奴の様に見えて仕方ありません。エイジさんに、モノクロの世界に居てはいけないと言われ仕舞いますね。
やっぱ自己犠牲とかはどーしても見返りを求めてしまうッスよ。。。
誰だって自分は損したくないです。
それでも、損を自己犠牲を見返りを求めずにしろとゆうことなんでしょうけど。
自分じゃそこまで出来ません…
見返りを求めずになんて
所詮そこまでの人間というか器なんでしょうね。
自分が他のために犠牲になってるから良いことしてるって思って良いです>Lisa
さん
そう思っても良いです。というか
人間は必ずそう思う筈です。
理想は思わないことですけど。>葉月さん
30年続けた女性も、
良いことしてるというよりも
感謝と自分が気持ちよかったから続けたそうです>しゃーしゃんさん
ありがとうございます>ロキソニンさん
私は金儲けのスピチュアル系は信用してません。>Janeさん
私もお寺の守銭奴ぶりには呆れてます。
私は基本的に大金を請求するところは信用してません。>pinokoさん
神の願いを一致させることが自己犠牲っていうか完全な利他なのですが
カバラでは人間には無理ということです
まず自己犠牲を断捨離みたいに習慣化することだと思います。>通りすがりさん
ちなみに私も同感ですよ。
断捨離とかトイレ掃除みたいに自己犠牲を生活に中に取り入れるということだと思います。カバラでも人間はエゴでしかないと言ってますから>那智さん
自分の知識や技術を人のために役立てるのは喜びです。
それは接する人に提供できればそれでいいと思っていて、
別に見返りは求めておりませんが、自己犠牲では無く、
自分が役立つ人間に思えて、それで嬉しいんだと思う。
自己満足かとも思うんですが、エゴであっても、
自分が何かでどこかで役立てば、いいかな、と。
その程度のことしかしてないです。
自分の新しい洋服を人に譲るというのは難しいです。。。
ま、何もしないよりはいいか、程度しかできてないんですね。。。
30年間掃除を続けられたのは【感謝と自分が気持ちよかったから】。
自己犠牲ありき、ではないんですよね。
自分の出来る範囲内で、感謝と自分が気持ちよいと思える事をしていたら、
人さまから、それってなかなかできないわね~とか
すごい人だ~って評価されたりするわけで。
他人からみたら、毎日わざわざ寺の掃除だなんて
あの人は、かわいそうに、自己犠牲の人だって言われてしまうけれど、
やってる本人は
ただただ純粋に感謝と気持ち良いことに動かされての行動。
自分の感情が、感謝と気持ち良いかどうかに基づいての行動だから、
きっと美しい波動だったんだろうと思います。
ヨコシマな気持ちで、
今日こそは、明日こそは神様仏様、頼みますよ、我に奇跡を❗️
って掃除していたら…。
また違った道があったのでしょうね(笑)
気をつけよ~っと。
どうすれば高めることができますか?
また、メンタルが強い事はエネルギーや引力が強い者の条件ですか?
それは自己犠牲とは言わないんじゃ?
自己犠牲というと、地震でマイクを離さなかった役所の女の子や
線路に落ちた人を助けようとして轢かれた人とか思い出して
これを美化して子供達に伝えることにすごく抵抗あるんだけど。
(役所の子は教科書に載るそうで)
親の目の前で踏切に飛び込んだ女の子など、私は
叱る対象であって褒める対象じゃないと思ってます。
こんなだからダメなのかもだけど、
やっぱり自己犠牲には嫌悪感感じます。
自分の中で、自己犠牲になるか奉仕になるか意識って大事だな~って思います。
なぜ真面目に生きてる人間は損をして 好き勝手に生きてる人間が評価されて 手抜きしても それは人に気づかれないで しゃあしゃあと皆に好まれて生きているのかわからないです。懐っこくて可愛がられる。。
真面目に生きてる人間は やることやってるのに なぜ評価されないで
可愛がられない。人柄だけで こうなるのかがわからないです。。
損ばかり。。
なぜですか?
腹がたつやら自分が嫌いになります。。教えていただきたい。
信仰よりも信心はよく分かります。
今回の記事に関係ないかもしれませんが、何かで読んだ話です。
何か深い理由があった上での
世間でいう大きな罪を犯すよりも、
街中でゴミを無造作に捨てたり
たんやツバを吐くことの方を
神は断じて嫌い罪を贖わせると。
誰にでも出来る簡単な、
小さな善行を心穏やかに継続すれば良いのかもしれませんね。
私自身が考える「自分の大事なもの」は、自分のこと以外に使う「時間」でしょうか。
ららあさんと同じく、私も今回の記事とは関係ないかも知れないのですが、
以前どなたかの発言で
「一家の中で2人がうまくいけばそれで成功」
というお母さんの記事を読みました。
彼女は、ご主人とお子さんが上手く日常をおくっていればそれがその家にとっての成功だと思う、そんな風に言っていました。
家族をサポートしながら家族の幸せを自分の幸せとするお母さんの言葉に
そうなのかなぁ?3人成功は無理なの?と、(笑)
当時は素直に受け止められませんでした。
今では、彼女は自分がそうしたいから家族を支えた結果の発言だったのかもしれないと思っています。
お母さんがしてくれることは対価もないので、わかりにくく評価されにくいのですが、
目に見えることもそうでないことも、家族のための細やかな心遣いをしてくれるお陰でうまく行っていることって沢山あるので、ネガティブではない意味で私がイメージする「自己犠牲」はありがたいお母さんです。
無償でない場合は仕事です。>カコさん
受け取る喜びと与える喜びを比較すると
与える喜びは受け取る喜びよりも大きいらしいのですが
受け取ることしか考えてない人間は判らないそうです。
そして大部分の人間はそうなのです。>ゆりぴょんさん
磁石が鉄を引き寄せるけれども
アルミニウムは引き寄せない理由と同じですが
エネルギーには種類があります。>菜子さん
じつは自己犠牲は最高にエクスタシーらしいです。
なんせエクスタシーこそ忘我ですからね。
これはカバラの秘密にかかわる重要な課題です>さくらさん
奉仕も自己犠牲ですね>由良さん
人間の運命はエネルギーによって決まります。
善悪では判らないですね>Yuzuさん
トイレ掃除も最初は気持ち悪いですけど
やってるうちに気持ちよくなります。
自己犠牲もそういうものだと思います>ららあさん
周りの人が幸せでないと自分も幸せになれないと知っているからです。
だから自己犠牲だと思ってないのですよ。
それこそ本当の自己犠牲の精神ですね>木綿さん
詐欺などは自己犠牲ですか?
過去に騙されて大金失いました。
これについては、「騙された~」と暗く辛い気持ちでいたほうがいいですか?
それとも「詐欺被害は魂にとって幸せな出来事」と気持ち切りかえたほうがいいですか?
これで命が助かったかも知れませんよ。>GREEN RABBITさん
エイジさん、有り難う御座います。
私は自分の娘が人を助けて死ぬより、ちゃんと逃げてほしいです。
娘じゃなく自分の夫でも親でも友人でも、とにかく自分にとって大事な誰かが犠牲になって死ぬのは嫌です。
本人はさくっと気持ちよく死ねて良かったね、幸せだね、って祝福できません。
むしろ怒りや恨みをまき散らしているように感じます。
…あれ? もしかして、大事な娘とかが知らない誰かを助けるために死んだら
そんな行為をした娘に怒りを感じたり、知らない誰かに恨みを覚えるのは私だけですか?
世の中の人はみんな、そんな娘を誇りに思い、微塵もマイナスを感じず祝杯や赤飯なんですか?
そんなことはないと思いますけど。
(だから私は私の大切な人を守るために、まず自分を守らなければと思ってます)
自己犠牲が陶酔感を生むのは良くわかります、実際子供の頃、辛いときはそうやって誰かの世話をしたし
誰かを守って死ぬ妄想は、それはそれはすさまじく気持ちよかったです。
でも、だからこそ危険だと思います。
そういう陶酔感で自分が特別になった気を起こすより、普通の一人として生き抜く方が大切だと思います。
世話をすることで、世話されないと困る弱者を作り出します。
死ねば、縁のある親しい人々に怒りや恨みの辛い感情をまき散らします。
それって、自分が気持ちよくなるために周りを不幸にする、薬物やアルコール依存と同じ構図にしか見えないのですが
何が違うのですか?
他のために自分の利益をかえりみないという生き方で
自分の利益を第一に考える生き方へのひとつの提案です。
嫌ならする必要はありません。>さくらさん
2.余剰分は貯蓄せずに、心に痛手を負わない奉仕によって投資する。
↑こういう事だろ?
Yuzuさん
アヒムサー(非暴力)は、心で戦ったらそれはもうアヒムサーじゃないから。
別にやらなくてもいいですけど、「あるヨギの自叙伝」に書いてあったんで、一応。
私の経験で申し訳ないですが、汝の敵を愛せ、を実行したらどうなったか。
心は怒らず冷静なまま、口ではブチギレた。しかも、すごく良いタイミングで、相手を論破する言葉が次々にスラスラ思いついて。
そして、周りが皆支援してくれて上手く運んだ。
マネしろとは言えませんが、あなたがその都度気分の良くなる方法を選べばいいと思います。
というか、(世間体・知名度は知らんが)そこ大した職場じゃないからね。数字に疎く、管理が甘い所なのかも。
まあ、口の上手い輩に嫉妬し、被害者意識を増幅させてエネルギーを無駄にする必要はないと思います。
以上、コメント荒らしのshogoでしたw
エイジさん、グラウンディングやった事ある?壁に体育座りして手のひらを上に向ける、みたいな色んな方法がある。
誰が考えたのか知らないけど、これ、やった方がいいよ。
エンパス(他人のエネルギーに左右されやすい体質)なら尚更。
俺の経験上、他人のエネルギーによる侵害って、あると思うよ。
まあ、自己奉仕もやってみますね。スピリチュアルの基本は、実践と結果が全てですから。
でも、さくらさんのコメントは面白いですね。犠牲妄想で気持ち良くなるのは、カタルシスの一種でしょうか?
それとも、人って精神の極限に追い詰められたり、ベニテングタケを食ったりすると、一瞬だけ神(もしくは幽界など)に繋がれるらしいけど、関係あるのかな…
※参考サイト:懐疑論者の祈り
…すいません書きすぎました。3連休楽しんできます。ノシ
それをやり始めてから不思議な現象を経験するようになり
龍や霊や妖精が観念でも空想の生き物でもなく
実在生命と実感してます>shogoさん
そうです!
祈りや感謝だけではいけないのです(^^ゞ
面倒くさいと怠っていた作業を、また開始します!
その感情を忘れないことが大事ですよ>おののさん