なぜ求道者は苦行をするのか?
野球選手とか政治家とか実業家が宗教の修行に参加することがあります。
例えば、滝に打たれるとか護摩行に参加するようなことです。
しかしながら、荒行によってその後、成功したとか成績が上がったという話はあまり聞いた事がありません。
一時的に上がっても、それだけです。
ところが、荒行を成功させた行者(僧)は、その後、
ほとんどの者が人生で成功し、尊敬や冨を得ています。
この差は、如何なる理由で発生するのでしょう?
結論を最初に書きますと、
それは、野球選手や政治家の荒行は「己を鍛える自分の為」であるが、
僧の荒行は「己を鍛えて、他者を救う為」に行われるからである。
つまり、
「他者を救う為の荒行」でなくては、自分への効果が無いのです。
といっても、
「他者を救う為に行っていれば、力が与えられる」のではありません。
「他者の為に祈れば、力が与えられる」でも無いのです。
大事なのは「無我」になるということです。
実はここが非常に重要で、今回書きたいテーマでもあります。
「護摩行」という荒行を考えてみましょう。
護摩行の目的は、「護摩木に書いてある衆生の願いを叶えること」であります。
つまり、伏見稲荷で「商売繁盛」を祈願するとしますと、
お稲荷の神様が願いを叶えてくれるようなもので、
護摩行の行者は、自分自身がお稲荷の神様のような働きをする行であります。
10万枚護摩行という荒行があります。
1日1万枚の護摩を7日間行い、のですが、
100日前から、五穀と食塩を断ち、
断食・断水・不眠で、3時間おきに1日8回、信者の願いが成就するよう護摩木を燃やし続けるのです。
この行は、「他者の願望を叶える」為に、己を苦しめる行であり、
決して、「自分の立身出世」とか「自分の金儲け」や「女性にモテモテになること」を
祈願して行われるのではなくて、
「他者の願いを叶える(護摩木の願いを叶える)」為に行われるのです。
即ち、他者が「立身出世」とか「金儲け」や「女性にモテモテになること」を
祈願して行われる。
又、千日回峰行という荒行がありますが、
これは、十二年籠山行を終え、
百日回峰行を終えた者の中から選ばれたものだけに許される行で、
行者は途中で行を続けられなくなったときは自害する決まりで、
そのために首をつるための紐と短刀を常時携行するそうであります。
さらに、700日目の回峰を終えた日から「堂入り」と言う九日間(丸七日半ほど)
にわたる断食・断水・断眠・断臥の行に入るのです。
断食、不眠不休で真言を唱えながら7日半続けるという行です。
そしてその後休む間もなくまた歩き続けることになるのです。
この行の目的も「金儲け」や「モテモテ運」や「権威」の為に行われるのでは無く、
「衆生救済」の為に行われるのです。
ここで読者の方は気づくと思うのですが、
なぜ衆生救済の為に「苦行」を行うのでしょう。
衆生救済+苦行が荒行なのですが、
なんで苦行しなくちゃいかんの?という疑問です。
実はこの「苦行」に秘密と答えがあるのです。
苦行をする目的は、「自分が苦しむ替わりに他者を救う」というものではありません。
もし、苦行の目的が「交換条件」であれば、
すべての衆生の願いを叶えるのは量的に不可能であります。
己の命と交換しても無理でしょう。
衆生一切を救済せしめる力を得るには、
「不動明王」を「僧(知識)」に憑依させることであります。
即ち、護摩木を焚く目的が「不動明王」に救済を要請するのではなくて
護摩木を焚く僧自身が不動明王に変化しなければならないのであります。
僧が不動明王に変化した刹那に、
護摩行が「魔法」に変化するのであります。
それでは、如何にして不動明王と一体化するのか?
それは、「無我」になることです。
しかしながら、いくら高僧と雖も、他者の為だけに苦行を行うのは実際には絶対無理なのです。
「90%は他者の為だけど、10%は自分の為」
「99%は他者の為だけど、1%は自分の為」というエゴが必ずあるのです。
そして無我でなければ、不動明王の力が注入されません。
どうすれば、他者の為だけの境地になれるでしょう?
如何にして「無我」になれるのかということです。
その答えが苦行にあるのです。
「自分勝手な他者の幸せの為に、
なぜ自分が死と隣り合わせの苦行を行う必要があるのか?
自分勝手な願いを叶えることが本当に仏の意志に適うのか?
私がやってることは価値の無いことかも知れない。
言うなれば、無駄死かも知れない。
しかし、それでも私は他者の願いの成就の為に己の命を捨てよう。」
という自己矛盾の極みに、一瞬、エゴが0%になる
のです。
その0%の刹那に達した者に無我になれ、「不動明王」が憑依する。
憑依した刹那に不動明王と同じ力が注入されるのです。
不動明王の力とは、具体的に説明しますと、
空間に存在する「エーテルエネルギー」であります。
エーテルエネルギーの量によって願望を成就させる力が左右されるのです。
逆に、少しでもエゴがあれば、「不動明王」と同じ力は注入されない訳で、
従って、護摩行も効果がありません。
以前に紹介した魔術師のグルジェフは、
「人は誰でも個別に電池を持っていて、電池が切れると疲れたり、不運に遭遇する。
しかし、宇宙には無限の電池が存在し、そこに接続できる者は、
社会的に成功したり、病気を治したり、未来を見たり、物を触れずに移動させることが出来る。
無限の電池に接続する方法は、自分の電池が枯渇するまで苦労する必要がある。
すべての力を出し切り、枯渇した時、無限の電池と初めて接続できる。
但し、大事なことは、放電中に失望や怒り、悲しみの感情を如何なる時も持たないことだ。」
と書いています。
参照:グルジェフの「超人思想」
つまり、「自分の為の荒行」よりも「他者を救う為の荒行」の方が、
結果的に自分への効果が高い理由は、
「不動明王(エーテルエネルギー)」の力が入っている為の「単なる付録」だと考えた方が妥当です。
なぜなら、エネルギーの高い者のほうが金持ちでモテモテに違いないからです。
行の目的というのは、神と一体化することによって奇跡を起こすのであり、
その為に、荒行という苦行が必要であり、
苦行によって、エゴを無くし、神と一体化することが可能になるのです。
そして苦行者に現世利益があるのは、単に神が宿った付録に過ぎないのです。
無我になるための方法論として
苦行があり、それも「自分の為の苦行」ではなくて
「まったくの他者の為の苦行」でなくては、決して無我にはなれないのです。
その無我になれるか否かの「差」が「現世利益」の差になっているのです。
twitterはこちら。
エイジの部屋
mixiもやってます。
Eiji
Eijiで検索してください。現住所は岐阜です。
例えば、滝に打たれるとか護摩行に参加するようなことです。
しかしながら、荒行によってその後、成功したとか成績が上がったという話はあまり聞いた事がありません。
一時的に上がっても、それだけです。
ところが、荒行を成功させた行者(僧)は、その後、
ほとんどの者が人生で成功し、尊敬や冨を得ています。
この差は、如何なる理由で発生するのでしょう?
結論を最初に書きますと、
それは、野球選手や政治家の荒行は「己を鍛える自分の為」であるが、
僧の荒行は「己を鍛えて、他者を救う為」に行われるからである。
つまり、
「他者を救う為の荒行」でなくては、自分への効果が無いのです。
といっても、
「他者を救う為に行っていれば、力が与えられる」のではありません。
「他者の為に祈れば、力が与えられる」でも無いのです。
大事なのは「無我」になるということです。
実はここが非常に重要で、今回書きたいテーマでもあります。
「護摩行」という荒行を考えてみましょう。
護摩行の目的は、「護摩木に書いてある衆生の願いを叶えること」であります。
つまり、伏見稲荷で「商売繁盛」を祈願するとしますと、
お稲荷の神様が願いを叶えてくれるようなもので、
護摩行の行者は、自分自身がお稲荷の神様のような働きをする行であります。
10万枚護摩行という荒行があります。
1日1万枚の護摩を7日間行い、のですが、
100日前から、五穀と食塩を断ち、
断食・断水・不眠で、3時間おきに1日8回、信者の願いが成就するよう護摩木を燃やし続けるのです。
この行は、「他者の願望を叶える」為に、己を苦しめる行であり、
決して、「自分の立身出世」とか「自分の金儲け」や「女性にモテモテになること」を
祈願して行われるのではなくて、
「他者の願いを叶える(護摩木の願いを叶える)」為に行われるのです。
即ち、他者が「立身出世」とか「金儲け」や「女性にモテモテになること」を
祈願して行われる。
又、千日回峰行という荒行がありますが、
これは、十二年籠山行を終え、
百日回峰行を終えた者の中から選ばれたものだけに許される行で、
行者は途中で行を続けられなくなったときは自害する決まりで、
そのために首をつるための紐と短刀を常時携行するそうであります。
さらに、700日目の回峰を終えた日から「堂入り」と言う九日間(丸七日半ほど)
にわたる断食・断水・断眠・断臥の行に入るのです。
断食、不眠不休で真言を唱えながら7日半続けるという行です。
そしてその後休む間もなくまた歩き続けることになるのです。
この行の目的も「金儲け」や「モテモテ運」や「権威」の為に行われるのでは無く、
「衆生救済」の為に行われるのです。
ここで読者の方は気づくと思うのですが、
なぜ衆生救済の為に「苦行」を行うのでしょう。
衆生救済+苦行が荒行なのですが、
なんで苦行しなくちゃいかんの?という疑問です。
実はこの「苦行」に秘密と答えがあるのです。
苦行をする目的は、「自分が苦しむ替わりに他者を救う」というものではありません。
もし、苦行の目的が「交換条件」であれば、
すべての衆生の願いを叶えるのは量的に不可能であります。
己の命と交換しても無理でしょう。
衆生一切を救済せしめる力を得るには、
「不動明王」を「僧(知識)」に憑依させることであります。
即ち、護摩木を焚く目的が「不動明王」に救済を要請するのではなくて
護摩木を焚く僧自身が不動明王に変化しなければならないのであります。
僧が不動明王に変化した刹那に、
護摩行が「魔法」に変化するのであります。
それでは、如何にして不動明王と一体化するのか?
それは、「無我」になることです。
しかしながら、いくら高僧と雖も、他者の為だけに苦行を行うのは実際には絶対無理なのです。
「90%は他者の為だけど、10%は自分の為」
「99%は他者の為だけど、1%は自分の為」というエゴが必ずあるのです。
そして無我でなければ、不動明王の力が注入されません。
どうすれば、他者の為だけの境地になれるでしょう?
如何にして「無我」になれるのかということです。
その答えが苦行にあるのです。
「自分勝手な他者の幸せの為に、
なぜ自分が死と隣り合わせの苦行を行う必要があるのか?
自分勝手な願いを叶えることが本当に仏の意志に適うのか?
私がやってることは価値の無いことかも知れない。
言うなれば、無駄死かも知れない。
しかし、それでも私は他者の願いの成就の為に己の命を捨てよう。」
という自己矛盾の極みに、一瞬、エゴが0%になる
のです。
その0%の刹那に達した者に無我になれ、「不動明王」が憑依する。
憑依した刹那に不動明王と同じ力が注入されるのです。
不動明王の力とは、具体的に説明しますと、
空間に存在する「エーテルエネルギー」であります。
エーテルエネルギーの量によって願望を成就させる力が左右されるのです。
逆に、少しでもエゴがあれば、「不動明王」と同じ力は注入されない訳で、
従って、護摩行も効果がありません。
以前に紹介した魔術師のグルジェフは、
「人は誰でも個別に電池を持っていて、電池が切れると疲れたり、不運に遭遇する。
しかし、宇宙には無限の電池が存在し、そこに接続できる者は、
社会的に成功したり、病気を治したり、未来を見たり、物を触れずに移動させることが出来る。
無限の電池に接続する方法は、自分の電池が枯渇するまで苦労する必要がある。
すべての力を出し切り、枯渇した時、無限の電池と初めて接続できる。
但し、大事なことは、放電中に失望や怒り、悲しみの感情を如何なる時も持たないことだ。」
と書いています。
参照:グルジェフの「超人思想」
つまり、「自分の為の荒行」よりも「他者を救う為の荒行」の方が、
結果的に自分への効果が高い理由は、
「不動明王(エーテルエネルギー)」の力が入っている為の「単なる付録」だと考えた方が妥当です。
なぜなら、エネルギーの高い者のほうが金持ちでモテモテに違いないからです。
行の目的というのは、神と一体化することによって奇跡を起こすのであり、
その為に、荒行という苦行が必要であり、
苦行によって、エゴを無くし、神と一体化することが可能になるのです。
そして苦行者に現世利益があるのは、単に神が宿った付録に過ぎないのです。
無我になるための方法論として
苦行があり、それも「自分の為の苦行」ではなくて
「まったくの他者の為の苦行」でなくては、決して無我にはなれないのです。
その無我になれるか否かの「差」が「現世利益」の差になっているのです。
twitterはこちら。
エイジの部屋
mixiもやってます。
Eiji
Eijiで検索してください。現住所は岐阜です。
この記事へのコメント
難しかったです。何度も読み返してみます。
願い事や成仏供養で、お願いの護摩木を書くことがありますが、
お不動さまが乗り移られるくらいの祈りがあってこそなんですね。
私も死後は如来界にいくつもりです。よろしく^ ^
自分が無くなるぐらい集中したりすると、何か起こりますよね。
それに近いような、、、。荒行は集中力を超えて自分が消える状態を
引き起こしやすいのかな?
いやいや、やはりそこは荒行だからこその何かがあるのでしょう。
目的が明確であること、自己利益のためではないこと、
意識が他者利益に集中していること、、、だろうか?
荒行って意味があったんですねえ。
しかしながら体力がある30代までですか?
何度も加筆修正中です。人に伝えようと思うと
書きながら自分の考えがまとまってきますね。>ららあさん
無我になるには、「理不尽な苦行」が必要で
「例え理不尽でも私はやります!」という自己矛盾を超越した地点に無我があると思います。
「~為」というまっとうな動機がある限り無我にがなれず
必要なのは「理不尽な苦労」です。>カコさん
正常を越えた世界に無我があると思います。
体力も壁の高さが違うだけで
限界を超えるに年齢は関係ないように思います。>六条さん
理不尽な苦労とは労働でもいいんですか?
不動明王が憑依する、には、
「無我」になる必要がある。
「無我」になるには「理不尽な苦行」が必要とのことですが、
必ずしもそういうわけでもなく「理不尽な苦行」が行えれば
そうなる、、、人も出てくる。
ただ、「理不尽な苦行」でなくとも「無我」にはなれるけれど、
「無我」になる他の方法を自分で行うのは相当困難ということではないか、となんとなく思う。
至高体験のような無我の境地と何が違うのだろうかと
ちょっと考えてしまいました。。。。
無我、しかも完全に他者のために。難しいですね。凡夫には。
己が生存競争に生き残るために他者を蹴落とす様な世の中に。誠実でも弱々しい者が生き残る方法なのかな。
至高体験と無我は同じものも違うものもあると思います。>カコさん
生存競争にうち勝つものは必ずしもけ落とす者ではなく
強いものでもなく、まして、弱々しいものでも
誠実な者でもありません。
かといって弱いから負けるわけではありません>janeさん
この記事だけではなく、 どの記事も、読んでいて 為になる事や興味深い事 面白い記事、たくさんあり、過去の記事も楽しく読ませていただきました。
次の記事も楽しみにしています(^_^)
とても解りやすく その境目の微妙な襞の違いの見極め・・・
というか 見分け方・・・
と言うか その辺りの解説。
とても励まされます。
度々 もう命果てるか・・・
に至りながら 生き延びてきました。
後押しとなります。
うまく 言葉になりませんが
言葉に顕せずらい事柄を敢えて解説下さり
ありがとうございます。