なぜ満足できないのか?
なぜ私達は満足できないのでしょう。
もしくは幸せに飽きてしまうのでしょうか。
この答えをカバラは明確に説明しています。
例えば、ケーキを食べたいと思うとしましょう。
そこで遂にケーキを食べる機会を得たとしましょう。
1口目は天にも昇る喜び。
2口目は喜びを噛みしめる。
そして一個を食べました。
さらにもう一個食べても良いと言われ、
二個目を食べます。
喜びはありますが、一個目ほどではありません。
さらにもう一個食べても良いと言われました。
喜びはありますが、ちょっと苦痛になってきます。
さらにもう一個食べても良いと言われました。
かなり苦痛になって、もうケーキは要らないと思うでしょう。
私達の満足というのも、このケーキと同じであります。
つまり、満足とは、欲求とそれを満たす対象が合致する箇所であり、
欲求が大きいほど、その喜びの体験も大きいのです。
ではなぜ喜びはいつも消えてしまうのかというと、
欲求が消えるからであります。
私達が永続的な喜びを得るには、
永続的に持続する欲求が必要なのである。
なんか変でしょ?
欲求があるから不満足と考えがちですがそうではないのです。
欲求が無い状態が満足ではないのです。
満足と欲求は相関関係にあるのです。
仏陀は「煩悩の火を消した状態を涅槃」と説きましたが、
それは、脳的に考えると、決して欲望を無くすことでは無くて、
「無くならない欲望」を持ち続けることが、
煩悩の火(怒り・貪り・愚痴)を消した状態という意味でなくてはならない。
仮に欲望を無くすことが涅槃であるなら(案外、このような解釈が多いですけど)
人間は決して涅槃に達することは出来ません(つまり間違った解釈です)。
なぜなら、人間の生きている本質とは「欲望を持っていること」だからです。
そして、私達の持つ欲望とは「無くなる欲望」と「無くならない欲望」の2つしかありません。
仮に、欲望を無くす状態を涅槃と定義するのならば、
事故や病気で植物人間になった人は涅槃の状態にあると言えます。
しかし、実際はそうではありません。
強い生命力や欲望を持った人間でありながら、
煩悩(怒り・貪り・愚痴)を持たない人間が涅槃に達した状態なのです。
私達がケーキに飽きた理由は、
ケーキを食べたいという欲求が消えたからであります。
仮に、どれだけ食べてもケーキへの欲求が消えなければ、
ケーキに飽きることは無いのです。
と書くと、「大食いは涅槃か?」と考えがちですが、
大食いの人でも必ず満腹になります。
人より、満腹になるのが遅いだけで本質は同じです。
では、無くならない欲求というものはあるのでしょうか?
それが判れば、私達は満足できる筈であります。
それを考える上で
なぜケーキへの欲求が無くなった原因を考察する必要があります。
なぜケーキに飽きたのか?
それは、ケーキの欲求の本質が「食欲」だからであります。
食欲自体に限度があるから、満腹したから飽きたのです。
つまり、ケーキのみならず、
消える欲望というのは、
最終的に肉体的なものに限定してしまう欲求であり、
それを総括しますと、「利己的な欲求」である。
利己的な欲求は、必ず最終的に欲望を大きく拡大させず、
肉体的な満足になってしまうから、必ず満足できなくなるのです。
自分自身を喜ばせることだけを考えている欲求は、
必ず肉体的な感覚に帰結するのであります。
そして、肉体的な感覚に起因する欲求は小さくて、
絶対に満足できないようにできているからです。
ですから、「無くならない欲求」というのは、
自分自身だけを喜ばせる欲求ではなく、
自分と他者の両方を喜ばせる欲求であり、
それは、「自分自身の力で他者を幸せにしたい(できる)」という欲求である。
それでは、どうすればそのような欲求を持つことができるのでしょうか?
これは非常に重要なことなのです。
アメリカの心理学者・アブラハム・マズロー(Abraham Harold Maslow)は、
人間の欲求を低次から高次の順で分類し、
5段階のピラミッド型の欲求の階層によって示しました。
マズローによって階層化された欲求とは、
生理的欲求・安全欲求・愛情欲求・尊敬欲求・自己実現欲求の5つである。
私達は、最初に食物、排泄、睡眠など、個体として生命を維持するために必要な基本的な欲求を持ちます。
そして、それがおおむね満足できると、安心して食事や睡眠を取れる場所が欲しくなるのです。
安心して暮らせる住居が得られると、集団に属したり、仲間から愛情を得たいという欲求を持ちます。
仲間が出来ると、仲間の中で個人として認められ、尊敬されたいという欲求を持つようになります。
そして尊敬や認められると、
自分自身の持っている能力・可能性を最大限に引き出し、
創造的活動をしたい、目標を達成したい、自己成長したいと思い始めます。
重要なことは、
これらの欲求は、低次の欲求がある程度満たされないと、
それよりも高次の欲求が発現しないのであります。
つまり、低次の欲求が満たされることによって、次の段階の欲求が芽生え、
それを満たすために行動を起こすのである。
「なぜ満足できないのか?」
それは、私達が利己的な欲望に飽きて、
本当の満足を得られる欲望を持つようになるように仕向けられているからであり、
いくら頭で判っていても、実感しなければ欲望は進化しないからである。
従って、誰でも、「食欲」や「性欲」から始まって、
それに飽きることによって進化するのです。
ですから、私達は自分の欲求をけっして「卑しいこと」とか「汚いこと」と考えてはいけないのです。
欲望を満たすように行動し、それが空しいと悟ることが実は重要なのです。
twitterはこちら。
エイジの部屋
mixiもやってます。
Eiji
Eijiで検索してください。現住所は岐阜です。
もしくは幸せに飽きてしまうのでしょうか。
この答えをカバラは明確に説明しています。
例えば、ケーキを食べたいと思うとしましょう。
そこで遂にケーキを食べる機会を得たとしましょう。
1口目は天にも昇る喜び。
2口目は喜びを噛みしめる。
そして一個を食べました。
さらにもう一個食べても良いと言われ、
二個目を食べます。
喜びはありますが、一個目ほどではありません。
さらにもう一個食べても良いと言われました。
喜びはありますが、ちょっと苦痛になってきます。
さらにもう一個食べても良いと言われました。
かなり苦痛になって、もうケーキは要らないと思うでしょう。
私達の満足というのも、このケーキと同じであります。
つまり、満足とは、欲求とそれを満たす対象が合致する箇所であり、
欲求が大きいほど、その喜びの体験も大きいのです。
ではなぜ喜びはいつも消えてしまうのかというと、
欲求が消えるからであります。
私達が永続的な喜びを得るには、
永続的に持続する欲求が必要なのである。
なんか変でしょ?
欲求があるから不満足と考えがちですがそうではないのです。
欲求が無い状態が満足ではないのです。
満足と欲求は相関関係にあるのです。
仏陀は「煩悩の火を消した状態を涅槃」と説きましたが、
それは、脳的に考えると、決して欲望を無くすことでは無くて、
「無くならない欲望」を持ち続けることが、
煩悩の火(怒り・貪り・愚痴)を消した状態という意味でなくてはならない。
仮に欲望を無くすことが涅槃であるなら(案外、このような解釈が多いですけど)
人間は決して涅槃に達することは出来ません(つまり間違った解釈です)。
なぜなら、人間の生きている本質とは「欲望を持っていること」だからです。
そして、私達の持つ欲望とは「無くなる欲望」と「無くならない欲望」の2つしかありません。
仮に、欲望を無くす状態を涅槃と定義するのならば、
事故や病気で植物人間になった人は涅槃の状態にあると言えます。
しかし、実際はそうではありません。
強い生命力や欲望を持った人間でありながら、
煩悩(怒り・貪り・愚痴)を持たない人間が涅槃に達した状態なのです。
私達がケーキに飽きた理由は、
ケーキを食べたいという欲求が消えたからであります。
仮に、どれだけ食べてもケーキへの欲求が消えなければ、
ケーキに飽きることは無いのです。
と書くと、「大食いは涅槃か?」と考えがちですが、
大食いの人でも必ず満腹になります。
人より、満腹になるのが遅いだけで本質は同じです。
では、無くならない欲求というものはあるのでしょうか?
それが判れば、私達は満足できる筈であります。
それを考える上で
なぜケーキへの欲求が無くなった原因を考察する必要があります。
なぜケーキに飽きたのか?
それは、ケーキの欲求の本質が「食欲」だからであります。
食欲自体に限度があるから、満腹したから飽きたのです。
つまり、ケーキのみならず、
消える欲望というのは、
最終的に肉体的なものに限定してしまう欲求であり、
それを総括しますと、「利己的な欲求」である。
利己的な欲求は、必ず最終的に欲望を大きく拡大させず、
肉体的な満足になってしまうから、必ず満足できなくなるのです。
自分自身を喜ばせることだけを考えている欲求は、
必ず肉体的な感覚に帰結するのであります。
そして、肉体的な感覚に起因する欲求は小さくて、
絶対に満足できないようにできているからです。
ですから、「無くならない欲求」というのは、
自分自身だけを喜ばせる欲求ではなく、
自分と他者の両方を喜ばせる欲求であり、
それは、「自分自身の力で他者を幸せにしたい(できる)」という欲求である。
それでは、どうすればそのような欲求を持つことができるのでしょうか?
これは非常に重要なことなのです。
アメリカの心理学者・アブラハム・マズロー(Abraham Harold Maslow)は、
人間の欲求を低次から高次の順で分類し、
5段階のピラミッド型の欲求の階層によって示しました。
マズローによって階層化された欲求とは、
生理的欲求・安全欲求・愛情欲求・尊敬欲求・自己実現欲求の5つである。
私達は、最初に食物、排泄、睡眠など、個体として生命を維持するために必要な基本的な欲求を持ちます。
そして、それがおおむね満足できると、安心して食事や睡眠を取れる場所が欲しくなるのです。
安心して暮らせる住居が得られると、集団に属したり、仲間から愛情を得たいという欲求を持ちます。
仲間が出来ると、仲間の中で個人として認められ、尊敬されたいという欲求を持つようになります。
そして尊敬や認められると、
自分自身の持っている能力・可能性を最大限に引き出し、
創造的活動をしたい、目標を達成したい、自己成長したいと思い始めます。
重要なことは、
これらの欲求は、低次の欲求がある程度満たされないと、
それよりも高次の欲求が発現しないのであります。
つまり、低次の欲求が満たされることによって、次の段階の欲求が芽生え、
それを満たすために行動を起こすのである。
「なぜ満足できないのか?」
それは、私達が利己的な欲望に飽きて、
本当の満足を得られる欲望を持つようになるように仕向けられているからであり、
いくら頭で判っていても、実感しなければ欲望は進化しないからである。
従って、誰でも、「食欲」や「性欲」から始まって、
それに飽きることによって進化するのです。
ですから、私達は自分の欲求をけっして「卑しいこと」とか「汚いこと」と考えてはいけないのです。
欲望を満たすように行動し、それが空しいと悟ることが実は重要なのです。
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エイジの部屋
mixiもやってます。
Eiji
Eijiで検索してください。現住所は岐阜です。
この記事へのコメント
って例えば、愛する人を幸せにしたい(結婚)とかですか?
「衣食足りて礼節を知る」ということですね。
確かに、低次元の欲望に振り回されていル状況はさけるべきなんでしょう。
世界から飢餓がなくなって欲しいですね。
ただ、、、、低次元の欲望が満たされて、そのあとの欲求には
実に様々なものがあるようで、
「人のために」「世界のために」という感覚が持てる人と持てない人が
いるのはなぜなんだろう?
何かが満たされていないということなんでしょうか?
飽きてしまうという事が、人間って悲しいなあと感じていました。
でも、次の段階に行くという事の為には仕方ない事と解釈すると、少し納得が出来るという気がします。
人を幸せにするという事が、自分の仕事で出来るのだとしたら、非常に幸せですよね。それによって、生活も成り立つとしたら最高ですよね。
アーティストが、舞台の上で最高のパフォーマンスで観客を感動させ恍惚の表情でいるのを見て、非常に羨ましいのですが。
そこまで行かなくても、自分の職場でお客様に感謝され認められるのに、飽きるという事はありません。
きちんと仕事をしていくという事は大切ですよね。
全く違う話でこけないでくださいネ(。・x・)ゞ
あれから(アドバイスいただいてから)待ち受けを、山崎方正さんに替えたら、
ビックリする位のモテ期に入ってしまいました。
エイジさんが云う事には、ハズレがないですね(*´∇`*)
欲望を満たすように行動し、それが空しいと悟る
それが…個の存在理由かもしれませんねぇ
思うのですが、個人の意識がツール(PC、携帯)として外部に露出してしまい、もう、戻ることが出来ない、人と人の繋がり…は、今がピークだと思います。もしかしたら欲望を満たす事が個の確立かもしれませんね…
ところで、今戸神社の猫は効果なかったです…。やはり山崎方正さんの待ち受けにしたほうがいいのでしょうか?
それは、まだ徹底していないからです。
善悪を考えずに願望に忠実になることです。>カコさん。
山崎方正で出来ましたか?
すごいですね。なんででしょうね?w
私の周りでも女性の場合は高い確率で一ヶ月以内に彼氏出来てます。>ぴのこさん。
山崎は女性限定みたいですよ。
今戸神社も個人差があるようですが何かが動く気がします。
モテる待ち受け考えてみますね>タカピーさん。
エイジさんの言う試練に近い、不思議な出来事がありました…。
エイジさんが言われているモテ期を呼び寄せるとはどうすればいいのでしょうか…。
エイジさん、お願いします。