もしも貴方の隣に神様がいたら?
もしも、貴方の隣に神様が居たとしましょう。
どんな人だと思いますか?
近づき難いカリスマでしょうか?
邪霊とか不浄霊のような汚いモノを嫌う聖者のような貴人でしょうか?
それとも未来や善悪を見通す予言者のような人でしょうか?
レベルを超越して悟りを開いたような方でしょうか?
私はこの答えが最近判るようになりました。
私は確信を持って答えるのですけど、
神様とは大国主命ような人である
ということであります。
では、大国主のような人とはどんな人でありましょう。
大国主とは日本神道に登場する神様で、
日本国の基礎を作った親神様であります。
その大国主とはどんな神様であったのか?
大国主のエピソードとして、
古事記の中に「袋背負いの心」「あかいだき」という話があり、
この話こそ、日本人の原点、神道の原点であると思われるので紹介しましょう。
アマテラスの弟であるスサノオには多くの子供(神)がいました。
ある日、その兄弟全員で日本一の女神と謳われたヤガミヒメに求婚にいくことになりました。
その際、兄神達の荷物を全て持たされた神がいて、
その神の名は、「大国主命」でありました。
大国主は、苦労は全部自分が背負ってやろうという心の優しい神で、
頼まれたことを断ることが無いので、いつも要領の良い兄神達にいいように使われていたのです。
八十神から遅れて、付いていく大国主はどう見ても従者にしか見えません。
しかしながら、いつも笑顔でいささかの怒りも悲観も無い足取りであったそうです。
この大国主の行為を「袋背負いの心」というそうである。
そして、結果的に日本一の女神と謳われたヤガミヒメが選んだのは、
荷物を持たされ従者としか見えない大国主だったのです。
この予想外の結果に怒った兄神達は、弟の大国主を殺そうとします。
手間山には赤猪が人間を困らせているので退治しようと話を持ちかけ、
自分たちが猪を追い立てるから、下で捕まえろと大国主に命令します。
そして大きな焼けた石を落としたのです。
大国主は兄達の企みを知りながらも、逃げも隠れもせず、
自分に与えられた役割として、大石を全身で受け止めて死んでしまうのです。
この大国主の行為を「あかいだき」というそうである。
しかしながら、大国主の行為を見届けたスサノオは、
大国主の行動を「真善美」として、再生させました。
そして更なる試練を大国主に与えるのですが、
いかなる試練に際しても「袋背負いの心」と「あかいだき」を実践したので、
兄神達を追放し、ついには日本の大王になるような力を与えるのです。
そして、この話の中に出てきた「袋背負いの心」と「あかいだき」こそ
日本人が実践すべき美徳であり、
それは、
出来るだけ他人の世話を焼くことや
他人の苦労を自分が背負い込むことが高貴で素晴らしい仕事である
と考えるのが大和民族の心であり、神の心なのです。
でもどうですか?
貴方の会社に大国主のような人がいたら絶対にナメられると思うのです。
貴方の会社だけでなく、現実社会に大国主のような人がいたら、
「馬鹿な奴」「要領の悪い奴」という評価が下されるに違いないと思うのです。
こういう人は仕事で失敗すると思われますが、
もしも、大国主のように身も心も徹底すれば、
必ず最期は成功すると古事記には書いてあるのです。
神様といえば、神々しく近寄り難い印象があります。
確かに古事記や日本書紀に登場する大国主の神は、
非常に神々しい神であり、日本国の第一の神であります。
しかしながら、
実際に隣に居たら、まったく威張っていない「馬鹿な奴」「要領の悪い奴」という印象であるに違いない。
そして、本物の神様とはそんな人なのです。
ですから、観音様やガネーシャも、
不動明王も毘沙門天も愛染明王も
全て大国主のような人だと思うのです。
「日月神示」という経典があってですね。
日月神示には「世界が大掃除される」という預言がされているのですが
その大掃除に際して、助かる人間と助からない人間がいるらしいです。
私にとって大きな問題はその違いは何かということなんですけど、
この違いについては、
「やれと言われてやった事、誉めて讃えてやった事、
一厘入ってクズとなる。
やれども、やれども誉められず途方に暮れて泣きを見る藻屑の如き行いが一厘入ると徳となる。」
という筆先にすべて集約されているのであります。
「やれども誉められず途方に暮れて泣きを見る藻屑の如き行い」というのは
まさに「袋背負いの心」「あかいだき」という「自己犠牲」の精神に他ならないと思うのであります。
そして、真の自己犠牲というのは、「俺は犠牲的精神でやるのだ」という野心的なものではありません。
それはどのような自己犠牲かと言いますと、
「敷島のやまと心を人問わば、朝日に匂う山桜花」
という本居宣長の和歌のような精神が根底に流れる自己犠牲であるべきなのです。
匂いがするだけで、山桜は見えません。
しかしながら、行為が自然に豊薫となり、周囲に「気」として存在するのです。
匂いしか無い故に、山桜の存在が薄れるのでは無く、
姿を見せずに匂いしか無い故に、ますます山桜の美しさを際だたせるのです。
そして、このような行いを徳といい、
このような行いの出来る人が真の貴人であり、
そのような人が報われる時代が来るのです。
witterはこちら。
エイジの部屋
mixiもやってます。
Eiji
Eijiで検索してください。現住所は岐阜です。
どんな人だと思いますか?
近づき難いカリスマでしょうか?
邪霊とか不浄霊のような汚いモノを嫌う聖者のような貴人でしょうか?
それとも未来や善悪を見通す予言者のような人でしょうか?
レベルを超越して悟りを開いたような方でしょうか?
私はこの答えが最近判るようになりました。
私は確信を持って答えるのですけど、
神様とは大国主命ような人である
ということであります。
では、大国主のような人とはどんな人でありましょう。
大国主とは日本神道に登場する神様で、
日本国の基礎を作った親神様であります。
その大国主とはどんな神様であったのか?
大国主のエピソードとして、
古事記の中に「袋背負いの心」「あかいだき」という話があり、
この話こそ、日本人の原点、神道の原点であると思われるので紹介しましょう。
アマテラスの弟であるスサノオには多くの子供(神)がいました。
ある日、その兄弟全員で日本一の女神と謳われたヤガミヒメに求婚にいくことになりました。
その際、兄神達の荷物を全て持たされた神がいて、
その神の名は、「大国主命」でありました。
大国主は、苦労は全部自分が背負ってやろうという心の優しい神で、
頼まれたことを断ることが無いので、いつも要領の良い兄神達にいいように使われていたのです。
八十神から遅れて、付いていく大国主はどう見ても従者にしか見えません。
しかしながら、いつも笑顔でいささかの怒りも悲観も無い足取りであったそうです。
この大国主の行為を「袋背負いの心」というそうである。
そして、結果的に日本一の女神と謳われたヤガミヒメが選んだのは、
荷物を持たされ従者としか見えない大国主だったのです。
この予想外の結果に怒った兄神達は、弟の大国主を殺そうとします。
手間山には赤猪が人間を困らせているので退治しようと話を持ちかけ、
自分たちが猪を追い立てるから、下で捕まえろと大国主に命令します。
そして大きな焼けた石を落としたのです。
大国主は兄達の企みを知りながらも、逃げも隠れもせず、
自分に与えられた役割として、大石を全身で受け止めて死んでしまうのです。
この大国主の行為を「あかいだき」というそうである。
しかしながら、大国主の行為を見届けたスサノオは、
大国主の行動を「真善美」として、再生させました。
そして更なる試練を大国主に与えるのですが、
いかなる試練に際しても「袋背負いの心」と「あかいだき」を実践したので、
兄神達を追放し、ついには日本の大王になるような力を与えるのです。
そして、この話の中に出てきた「袋背負いの心」と「あかいだき」こそ
日本人が実践すべき美徳であり、
それは、
出来るだけ他人の世話を焼くことや
他人の苦労を自分が背負い込むことが高貴で素晴らしい仕事である
と考えるのが大和民族の心であり、神の心なのです。
でもどうですか?
貴方の会社に大国主のような人がいたら絶対にナメられると思うのです。
貴方の会社だけでなく、現実社会に大国主のような人がいたら、
「馬鹿な奴」「要領の悪い奴」という評価が下されるに違いないと思うのです。
こういう人は仕事で失敗すると思われますが、
もしも、大国主のように身も心も徹底すれば、
必ず最期は成功すると古事記には書いてあるのです。
神様といえば、神々しく近寄り難い印象があります。
確かに古事記や日本書紀に登場する大国主の神は、
非常に神々しい神であり、日本国の第一の神であります。
しかしながら、
実際に隣に居たら、まったく威張っていない「馬鹿な奴」「要領の悪い奴」という印象であるに違いない。
そして、本物の神様とはそんな人なのです。
ですから、観音様やガネーシャも、
不動明王も毘沙門天も愛染明王も
全て大国主のような人だと思うのです。
「日月神示」という経典があってですね。
日月神示には「世界が大掃除される」という預言がされているのですが
その大掃除に際して、助かる人間と助からない人間がいるらしいです。
私にとって大きな問題はその違いは何かということなんですけど、
この違いについては、
「やれと言われてやった事、誉めて讃えてやった事、
一厘入ってクズとなる。
やれども、やれども誉められず途方に暮れて泣きを見る藻屑の如き行いが一厘入ると徳となる。」
という筆先にすべて集約されているのであります。
「やれども誉められず途方に暮れて泣きを見る藻屑の如き行い」というのは
まさに「袋背負いの心」「あかいだき」という「自己犠牲」の精神に他ならないと思うのであります。
そして、真の自己犠牲というのは、「俺は犠牲的精神でやるのだ」という野心的なものではありません。
それはどのような自己犠牲かと言いますと、
「敷島のやまと心を人問わば、朝日に匂う山桜花」
という本居宣長の和歌のような精神が根底に流れる自己犠牲であるべきなのです。
匂いがするだけで、山桜は見えません。
しかしながら、行為が自然に豊薫となり、周囲に「気」として存在するのです。
匂いしか無い故に、山桜の存在が薄れるのでは無く、
姿を見せずに匂いしか無い故に、ますます山桜の美しさを際だたせるのです。
そして、このような行いを徳といい、
このような行いの出来る人が真の貴人であり、
そのような人が報われる時代が来るのです。
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エイジの部屋
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Eiji
Eijiで検索してください。現住所は岐阜です。
この記事へのコメント
一厘入ってクズとなる。
やれども、やれども誉められず途方に暮れて泣きを見る藻屑の如き行いが一厘入ると徳となる
このおさしづは何時のあさしづですか?
天理教正家分教会 会長 吉田 育弘 ikubon@live.jp
〒635-0123奈良県高市郡高取町市尾948番地
日月神示の中の筆先と思われます。>イクボンさん。
共同体あっての個人という感じですね。
人から頼まれて行うのと、
必要と思うから頼まれないけれど全体のために行うのって
異なるでしょうか?
大和魂だと後者は「余計なこと」って感じなのかしら?
我が家には、大国主命の掛け軸が飾ってあるのですが、
そのような神様だったとは初めて知りました。
2つの俵の上に座り、両手のひらの中には、
緑色の玉のようなものを抱いています。
神棚と仏壇を拝んだ後で、大国主命さまにもご挨拶しています。
その緑色の玉は地球なのかなあなどと思いを馳せながら。
リターンを求めない行いを一日1つずつでも重ねていけたらなと思います。
これは頼まれたからやるっていう精神ではなくて
「やらなきゃいけない」という使命感みたいなものだと思います>カコさん。
神様というと偉いとか近つき難いというイメージがありますが
実際の神様は非常に心優しい気さくな方であると思います。
そして自分の進む方向も大国主を手本にすべきだと思います>しゃーしゃんさん。